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原爆で亡くなった少女の思い 平和の象徴 “折り鶴”のきっかけは名古屋の女子高生たちだった…つなぐ平和のバトン【戦後80年】

CBCテレビ
08.17(日)14:02

戦後80年。8月6日は「広島原爆の日」。原爆の後遺症で亡くなったひとりの少女と当時の名古屋の女子高校生たちとの間には「折り鶴」を通じた深いつながりが。平和のバトンをどう引き継ぐのか、考えます。

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広島。爆心地に近い平和記念公園のシンボルとなっている「原爆の子の像」。女の子が掲げているのは、「折り鶴」です。その足元には毎年、世界中から平和を願う千羽鶴が届けられています。

(フランスからの観光客)
「広島に来る前にみんなでサダコの物語について学びました」

(アメリカからの観光客 夫)
「私たちは本当に幼いとき学校で彼女についての物語を読みました」
(妻)
「物語の中で彼女が白血病になり、友だちが彼女に『千羽鶴を折れば願いが叶う』と伝えたこと覚えています」

原爆の子の像のモデル 佐々木禎子さん

銅像のモデルになったのは、80年前、広島に住んでいた佐々木禎子さん。2歳のとき爆心地から約1.6キロ離れた自宅で被爆しました。

運動が得意で足も速かった禎子さん。被爆から9年後の1954年。小学校6年生の秋の運動会ではリレーの選手も勤めましたが、そのあと体調を崩し入院。診断は白血病、いわゆる「原爆症」でした。

苦しい闘病生活の中、一筋の光となったのが病室に届けられた千羽鶴でした。「千羽、鶴を折ったら元気になれる」という思いで禎子さんは病室で鶴を折り続けたといいます。しかし、その年の10月、禎子さんは12歳で亡くなりました。

たとえ短い間でも禎子さんに希望をもたらした千羽鶴。これを送ったのは、名古屋の愛知淑徳高校の生徒たちでした。当時の広島の新聞にも、淑徳高校の青少年赤十字団員が千羽鶴を送ったことが伝えられています(中国新聞 1955年8月4日の記事)。

「原爆で苦しんでいる人に…」“乙女心”で折った千羽鶴

名古屋市に住む高橋登代子さん(87)と中村ゆき江さん(86)。70年前、千羽鶴を折った本人です。

(高橋登代子さん)
「原爆で苦しんでいる人に何かしたいということで鶴を折った」

当時はまだ物資の乏しい時代。

(中村ゆき江さん)
「キャラメル食べればキャラメルの紙も(折り鶴に)必要なのよ。折ったよね」

高橋さんたちは2009年に禎子さんの兄の雅弘さんに対面を果たし、感謝の言葉を送られました。

(禎子さんの兄 佐々木雅弘さん)
「とても感激しています。折り鶴がなかったら原爆の子の像も建たなかったし、平和の象徴としての鶴が世界中に飛ぶこともなかった」

去年12月ノーベル平和賞を受賞した日本被団協。現地では歴代受賞者を紹介する写真が並ぶ中、被団協は、禎子さんの折り鶴がシンボルとして映し出されました。

鶴を折った大先輩たちが母校に…

戦後80年の今年、高橋さんたち折り鶴を送ったメンバーのうち4人が、その体験を今の生徒たちに話すことになり、名古屋市千種区にある母校、愛知淑徳高校を訪ねました。

当時色紙はたくさん手に入らず、実家の文房具店にあったセロファンを使ったと話す中村順子さん。

(中村順子さん)
「色が5色あった。この色とピンクと黄色と赤と」

(愛知淑徳高校2年生 左右田真理さん)
「鶴を折るのにどれぐらい時間がかかったんですか?」

(高橋登代子さん)
「2年生の夏休みに入る前、バタバタバタっと折った。とにかく(8月)6日の原爆の日に間に合うように」

家に持ち帰って折ったという杉浦都さん。

(杉浦都さん)
「一生懸命私が折っているから『そんなもんばかりやって』とおばあさんがすぐ近くに寝てて、しょっちゅう言われていた」

今も毎日鶴を折るという中村ゆき江さん。後輩たちに鶴の折り方を指南します。

(愛知淑徳高校2年生 小長井紗彩さん)
「病気が治ってほしいとか平和な未来が続いてほしいとか、たくさん思いが込められて、たくさんの思いから千羽鶴が成り立っているんだなとあらためて実感した」

「先輩たちと行きたい…」広島への旅が実現

7月末、生徒と高橋さんたちは広島に来ていました。

(小長井さん)
「今回私が(広島に)行きたいと言ったんです。当時の先輩方と実際に回って気づくこともあると思うから」

生徒から希望で大先輩たちとの広島訪問が実現したのです。そして「原爆の子の像」の前へ。

(像を見て)「あの子が禎子さんよ」

この日のために折った鶴を捧げます。

(高橋さん)
「(後輩の皆さんと)一緒に来られてよかった。誘ってもらえたから(来られた)。もう来られないと思っていた」

(愛知淑徳高校2年生 前田樹里さん)
「 実際に像を見て見ると思いが違う。感動しました」

「2人そろってリレーの選手」禎子さんの親友を訪ねる

千羽鶴を収めた一行はこの日、ある人と会う約束をしていました。広島市内に住む、禎子さんのクラスメートだった川野登美子さん(83)です。

(川野登美子さん)
「跳び箱を体操の時間に七段以上飛べたのは、その当時、女の子では禎ちゃんと私だけ」

仲良しだった2人は、そろってリレーの選手。小学校6年生の秋の運動会では見事1着になりました。しかし禎子さんはその後発病し翌年2月に入院。川野さんは、病室で鶴を折る禎子さんの姿を覚えています。

(川野さん)
「(禎子さんが)なぜ折ってるかっていうのは、一切聞かなかったし聞けるような雰囲気でもなかった。というのがね、原爆病で入院したら、もう命を助からないっていうことは、当時の広島中の人が知っていたから。最後頃は8月に見舞いに行って、それからは行ってなかった」

見舞いに行けない中、1955年10月25日、禎子さんは亡くなりました。悲しい折鶴の記憶。それでも…

(川野さん)
「でも私ね、(千羽鶴を)この名古屋の女学生が送ってくださったという話をずいぶんあとで聞いたときに、涙が出るほど嬉しかったです。それはね、禎ちゃんに目的ができたっていうことでしょ。あれがもし何もなかったら、禎ちゃんもっと苦しかったんじゃないかと思ってね」

川野さんたちはその後、原爆の子の像を作る運動を始め、募金の輪は日本全国に拡大。禎子さんが亡くなった3年後の1958年5月5日に、原爆の子の像は完成しました。

原爆資料館には、禎子さんが折った鶴が残されています。羽根を広げても2センチほどの鶴。

(生徒たち)「むっちゃ小さい」
(先輩たち)「絶対直りたい直りたいっていう気持ちがこもっている。必死になって折った」

大先輩たちとの折り鶴の旅は終わりました。

(愛知淑徳高校2年生 左右田真理さん)
「鶴を最初に贈った先輩たちと広島を訪れて、原爆の子の像の前に折り鶴を捧げることができてとても嬉しかった。私たち若い世代が平和を守っていかなければけないと強く感じた」

広島の地で握手を交わします。
「ありがとう これからも頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」

収められた千羽鶴には生徒たちの言葉が書き添えられていました。
「禎子さん、今もあなたの鶴は飛び続けています」

平和を祈るバトンは、ひきつがれていきます。

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