
焼き尽くされる人々…「原爆の図」修復 GHQ統治下や直後に国内170か所以上で広島の惨禍伝える そしてこれからも…【戦後80年】

戦後80年を迎える中、原爆の惨状を描いた“ある絵”が修復されました。平和な時代を生きる私たちに問いかけてくるものとは。
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紅蓮の炎に焼かれる人々。その中には赤ちゃんの姿も。広島出身の画家、丸木位里と妻の俊が描いた「原爆の図 第二部 火」。
8枚1組の屏風は、縦1.8メートル、横7.2メートルの大きさです。1945年8月6日の原爆投下を受け、当時東京に住んでいた丸木夫妻は実家のあった広島に帰り、1か月以上救援活動を手伝いました。その後、突き動かされるように絵筆をとった二人は5年後の1950年2月。「原爆の図」の1作目(第一部)「幽霊」を描き上げます。さまよい歩く人々と、その足元に眠る赤ちゃん。
(原爆の図丸木美術館 岡村幸宜学芸員)
「第一部の赤ちゃんというのは安らかな顔で眠っているような赤ちゃんで、せめてこの子だけでも生き残ってほしいと言っていますけれど、実際発表すると『現実はこうじゃなかった』と。赤ちゃんが黒焦げになって地面に転がっていたみたいな反応があって…」
その半年後に発表したのが、2作目の「火」。そこで描かれた赤ちゃんは…炎に包まれていました。
愛知県立芸術大学で2年がかりの修復
被爆した人たちの思いにも寄り添い、丸木夫妻は30年以上かけて「原爆の図」全15作品を完成させました。
戦後80年を迎えた今年、その内のある作品の修復が、愛知県長久手市の愛知県立芸術大学 文化財保存修復研究所で行われていました。炎に焼かれる人々を描いた「火」です。
汚れを吸い取り紙でとりのぞき、くすんでいた炎の赤色は元に近い状態になりました。傷んだ部分には裏から和紙をあてるなど修復作業は2年がかり。絵の端にあった15センチほどの傷には上から紙が貼ってありましたが、約30年ぶりにはがされました。
「作品をつなげていける中の1人になれた」
修復を終えた絵を、新しい屏風の下地に貼っていきます。
(研究員ら)
「大丈夫ですか」
「ぴったりぐらい。端」
「端はちょうどぴったりです」
(修復を担当した磯谷明子研究員)
「本当に大切にされないのであれば、とっくに存在しなかったであろうし、あるいはもっと傷だらけになっていたと思う。大事にされてきている作品をつなげていける中の1人になれたのは、ありがたく思う」
「もし地獄が本当にあれば その地獄よりも恐ろしい」
原爆の図は、GHQによる占領下に国内各地で展示が行われました。検閲によって、原爆を批判する報道や映像が制限されていた中、例外的にその惨状を伝えるメッセージとなり多くの人々が足を運びました。1986年、当時の愛知県美術館で展示された際の映像には、会場を訪れた丸木夫妻の姿が。
(丸木俊)
「広島を見ましたからね。こんな大変なことが二度とあってはいけないと思いましたから。もし地獄が本当にあれば、その地獄よりももっと恐ろしいでしょうね」
「火」をはじめとする「原爆の図」はその後海外からも招かれ、世界20か国以上で展示されてきました。
(丸木美術館 岡村学芸員)
「いつの時代にも通じるような人間の痛みとか暴力の破壊性を描いている」
70年前に「原爆の図」を模写した小学生たちが…
愛知県岡崎市の徳応寺。「火」は、ここにもあります。本堂に入ると…
(山室雅子記者)
「木の箱が…『原爆被災の図』と書いてあります」
(徳応寺 都路尚裕住職)
「仏様の近くに保管してあります」
木箱に収められた掛け軸に描かれていたのは、あの火に焼かれる人々。今から約70年前の1956年に地元の小学5年生48人が取り組んだ“模写”です。終戦の年に生まれた子どもたちは、まさに「原爆の図」に描かれた赤ん坊と同じ世代でした。
模写のきっかけは、終戦から10年ほどたった頃の授業でした。
(都路住職)
「学校の授業で戦争の話になり、1人の児童が『原爆は景気がいい』と言葉を発した」
この言葉に衝撃を受けた担任が「原爆の図」の画集を見せると、48人の児童たちはこの「恐ろしさを伝えたい」と模写を始めたといいます。
当時模写した小学生は今79歳に
当時「原爆の図」を模写した1人に話を聞くことができました。現在は名古屋市に住む永井孝昌さん79歳。
(永井孝昌さん)
「(描いたのは)学校の講堂ですね。小学校の講堂。とても暑かった記憶がありますね。夏でしたから。夏休みに描きましたから」
まだ敗戦が色濃く残り、貧しかった時代。子どもたちはシジミを取って売ったりして、墨や紙の費用を作ったといいます。
(永井さん)
「シジミは川で取りました。ぼくの家の前に更紗川(さらさがわ)っていう小川があってその辺りで取った」
Q描いた絵の記憶は?怖かったのでは?
「怖かったです。とても怖かったですね。ほとんどはだかの人たちが、いまにも倒れそうな人たちが行列をなして歩いていた光景は、本当に怖かったですね。
そしてこんな記憶も…。
「赤ちゃんの絵は何枚も みんなで描きました」
(永井さん)
「赤ちゃんが大人の足元に倒れていまして、先生から『この赤ちゃんがもし生きていたら君たちと同じ年齢なんだよ』ということを聞かされて、それからですね。赤ちゃんは何枚も描きました。みんなが描きましたね」
子どもたちの模写には、オリジナルを少し変えた部分も。
(都路住職)
「(赤ちゃんの)そばにぬいぐるみが描かれていますけれども、原画には描かれてなくて、慰霊の意味でぬいぐるみを描いたと思う」
その後「子どもにはふさわしくない絵」だと大人の横やりが入り、絵は処分されそうになりましたが、子どもたちを応援していた先々代の住職、都路精哲さんが絵を引き取り大切に保管。40年前から毎年8月6日~15日まで一般公開も行っています。
(都路住職)
「絵を描いた子どもたちの思い、願いというものをずっと感じながら公開を続けていかれたらと思っている」
(永井さん)
「最近『核』の話がよく出ますよね。去年は被団協の皆さんがノーベル平和賞を受賞した。そういう話を聞くと(模写をしたことを)思いだす。記憶の中では大事にしていきたい」
修復を終えた「原爆の図」が2年ぶりに美術館へ
埼玉県・東松山市にある「原爆の図 丸木美術館」。「原爆の図」を展示するために丸木夫妻が1967年に作った小さな美術館です。
(来館者)
「白と黒でこんな恐ろしいことが描けるんだ。だからこそなのかもわかりませんが、亡くなった人たちのまわりに魂が漂っているようなそんな印象を受けます」
6月13日、修復された「火」が約2年ぶりに戻ってきました。
(岡村学芸員)
「全体的に埃がついたりして汚れている部分があったので、今回それも全部きれいにしてもらった」
「火」は、2026年 国内だけでなく、ヨーロッパでも展示される予定です。
(岡村学芸員)「原爆や戦争を体験した方々はもう本当に残り時間が少なくなってきてると思う、絵は人の命よりも長い時間残るので、我々は絵画と言う想像力を通じて、自分たちが生きていない時代に起きたできごとを身近に考え続けていくことがとても重要かなと思っています」
80年前の、あの惨状を描いた丸木夫妻。日本が豊かさを取り戻した中、こんな言葉を残しています。
(丸木俊さん 1986年)
「洗濯機があって、自動車があって、テレビがあったら金持ちになったと思ってぼけてちゃだめよ。本当の豊かさとは何か、そういうことについて考えてもらいたい」
※丸木美術館は2025年9月28日(日)をもって、全館改修工事のため長期休館に入ります(リニューアルオープンは2027年5月を予定)。休館中も国内外での展示は行われます。