
両陛下がモンゴル抑留の地へ “両足切断”100歳元日本兵の涙

テレビのニュースを見つめ涙を流すのは元日本兵で100歳の男性。7月8日という日を特別な思いで迎えたワケとは…。

8日、国賓としてモンゴルを訪問されている天皇皇后両陛下。午前には、ウランバートル中心部にあるスフバートル広場で大統領夫妻に出迎えられ、歓迎式典に臨まれました。
式典には大相撲のモンゴル出身の元横綱・朝青龍さん、白鵬さん、日馬富士さんも出席し、両陛下は声をかけられました。
歴代天皇で初めてとなるモンゴル訪問。

日本で特別な思いで待っていた人がいます。神戸市に住む友弘正雄さん(100)。実は、友弘さん。モンゴルに抑留されていた元日本兵です。
モンゴルで抑留された 友弘正雄さん:
「陛下が慰霊碑に行かれるのだけは、この目で確かめておきたい。天皇が行かれるのが一番なんですから。天皇の兵隊やねんから」

第2次世界大戦直後、ソ連は、満州などにいた57万人以上の日本兵や一部の民間人をシベリアなどの収容所へ連行。「シベリア抑留」として知られています。

一方、ほとんど知られていないのが「モンゴル抑留」。約1万4000人が2年にわたって抑留されました。
モンゴルで抑留された 友弘さん(2019年取材):
「あの時、生きるのは精一杯で。『あしたは死ぬかも分からんな。今度は俺の番かな』と思いながら、なんとか生きて帰りたいな(と思っていた)」

当時の満州でソ連軍の捕虜となった友弘さん。鉄道やトラックなどに乗せられ、モンゴルへ移送されました。
道中、冬の寒さの中、足が凍傷になり、病院に着いた時には、切断するしかない状態だったといいます。

約2年間に及んだ抑留生活は一体どんなものだったのか…。6年前、モンゴルを訪れた友弘さんに取材班も同行しました。
日本から約3000キロ離れたモンゴル。ウランバートル市内の広場には、抑留者の刻んだ足跡が残っていました。
友弘さん(2019年取材):
「これがオペラ劇場。抑留者がつくった。ここは、多分、映画館。なんとかチャートル(劇場)。それも建てた」

町の顔である図書館や市役所などの多くの建物が、日本人抑留者によって建てられたといいます。
そのワケはー。
歴史学者 エルデネビレグさん:
「当時、モンゴルは首都の都市整備を始めたばかりだった。しかし、建設現場で働く労働力が足りず、抑留者を送るようソ連に要請した」
労働力不足を抑留者で補い、首都の整備を進めたのだといいます。

過酷な強制労働で多くの命が犠牲に。
友弘さん(2019年取材):
「階段をこう上っていって、踏み外してだーんと落ちて軍医学校に入ったばかりの青年が死んでしまった」
他にも、劣悪な生活環境の中、感染病などにかかり、2年間で約2000人が死亡しました。

友弘さん(2019年取材):
「建物のたたずまいは昔のままです」
かつての捕虜収容病院、ここで、当時20歳の友弘さんは、両足を切断しました。杖や義足はなく床を這いずりながらの入院生活だったといいます。

友弘さん(2019年取材):
「(入院中)みなさんの世話にならないことには生きていけなかった。排泄物、これまで戦友に世話にならなければいけない。便所まで持って行って、捨ててくれてちゃんと洗ってくれて。その戦友も病気で、こっちに入っている病気なの。いつ死ぬか分からないの。それが死んでいったの2人。私より先に。だんだん愚痴っぽくなってきたから、もうやめよう。情けなかったよ」

モンゴルに取り残された戦友たちの弔いは、できないものか。日本に帰国してからも友弘さんは、慰霊の旅を続け、40回以上モンゴルを訪れました。

友弘さん、最後の慰霊の旅。一番の目的地がウランバートル郊外にあるこの小さな丘でした。
かつて、この場所には日本人抑留者の遺骨が埋葬されていましたが、現在は日本に移され、慰霊碑が建てられています。

戦友たちの魂へ、友弘さんが最後にかけた言葉はー。
友弘さん(2019年取材):
「友弘は、こんにちをもって、モンゴルとお別れします。皆さん、一緒に日本へ帰りましょう、日本へ帰りましょう」

8日午後、雨が降る中、慰霊碑を訪問された両陛下。白を基調とした花輪を慰霊碑に供花されました。

神戸市の自宅でその様子を手を合わせて見ていた友弘さん。天皇陛下による現地での初めて慰霊…。
友弘さん:
「やっと我々だけじゃなしに、天皇皇后両陛下がお参り、うれしいです。うれしい…。亡くなった人みんな天に慰霊碑の上、飛んでいますよね。うれし涙が出てきます。生きててよかった」

帰国がかなわなかった戦友たちへの思い…。戦後80年をむかえ、いま、友弘さんが伝えたいこと。
友弘さん:
「しょっちゅう世界中で、ガタガタけんかしている。抑留はもとは戦争やった。その原因はどこにあるかを勉強して、長いこと考えてほしい」