名古屋空襲による名古屋城の天守炎上を引き起こしたのは「誤爆」か 資料を紐解き見えてきた裏側

太平洋戦争末期の名古屋空襲により焼け落ちた名古屋城の天守。戦後80年、資料をひも解くと実は誤爆が原因だった可能性が見えてきました。
「もう日本はだめだ」―97歳が語る絶望の記憶

1945年5月14日、名古屋の象徴であった名古屋城天守が空襲によって炎上、焼失しました。
「自分は自分の身を守らないといけない。だけど上から焼夷弾が落ちてくる。燃えているだけじゃなく、何が落ちてくるかわからない」
そう語るのは、岡島貞一さん、97歳。1942年4月から1945年7月まで続いた名古屋空襲の体験者です。当時、航空軍需産業の一大拠点であった名古屋は、幾度となく空襲の標的とされていました。

5月14日、焼夷弾が降りしきる中、岡島さんは名古屋城近くの自宅からの避難をしようとしていました。その目に飛び込んできたのが、焼け落ちる天守の姿でした。
岡島さん:
「真っ赤な炎が上がり、丸太が落ちてくるのを見た。お城がとうとうやられたか。もう将来、日本はだめだなと。がくぜんとして本当にがっかりした」
当時、城郭としては国宝の第1号に指定されていた名古屋城の天守は、空襲の後、石垣だけを残して地上から姿を消しました。
専門家「狙いは名古屋城ではなかった」

長年、名古屋空襲を研究してきた西形久司さんは、この名古屋城天守の焼失について、アメリカ軍の誤爆との見解を示します。
西形さん:
「アメリカ軍側からしてみれば、名古屋城を狙ったんじゃないと」
西形さんはアメリカ軍が残した作戦資料を分析する中で、名古屋城そのものは爆撃の主たる目標ではなかったと結論づけています。その根拠の一つが、米軍が爆撃目標を選定するために1943年段階で作成した、名古屋市内の人口密度を示す地図です。

この地図では、1平方マイルあたりの人口密度が9万1000人以上の地域を「ゾーン1」、それに次ぐ地域を「ゾーン2」として濃い色で塗り、優先的な爆撃目標としていました。しかし、名古屋城は色が塗られていない「対象外」のエリアでした。
西形さん:
「アメリカ軍が狙っていたのは、大都市の市街地に手に負えない火災を起こすことでした。広々としたところに点々と建物が立つ名古屋城は、爆弾を落としても火災が燃え広がらない」
なぜ名古屋城に焼夷弾が投下されたのか

では、なぜ目標ではなかったはずの名古屋城に、焼夷弾が投下されたのでしょうか。西形さんは、2つの理由があると指摘します。
1つ目の理由は、日本軍による激しい反撃でした。それまでの名古屋への空襲は夜間が主であり、米軍は日本の防空能力を比較的低いと判断していました。そこで、より爆撃の精度を上げるため、この日は昼間の攻撃に踏み切ります。しかし、これが裏目に出ました。
西形さん:
「昼間だったため、名古屋の戦闘機部隊も飛び上がってくる。アメリカ軍にしてみれば完全に予想外の反撃でした」

2つ目の理由は、当時最新鋭だった爆撃機B29のシステム的な“弱点”です。B29に搭載されていた自動操縦爆撃システムは、爆撃手が目標を照準機にセットすると、爆弾が投下されるまで機体の針路や高度がロックされ、パイロットが手動で操縦桿を操作できなくなるという特性がありました。
西形さん:
「どうすれば操縦桿のロックが解除されるか。実は爆弾を落とすことなんです」
名古屋上空に西から侵入したB29編隊は、本来の目標であった城の東から北にかけての市街地へ向かう途中、日本軍による反撃に遭いました。攻撃を回避するため、自動操縦を解除しようと名古屋城付近で焼夷弾を落としたのではないかと指摘します。
阻まれた消火活動

焼夷弾の直撃を受けた名古屋城、さらなる悲劇が襲います。名古屋市が国に提出した報告書には、大天守閣などに火の手が上がったのは「午前8時20分頃」と記録されています。しかし、消防隊の責任者が記した報告書を見ると、消火活動が始まったのは「午前9時25分」。実に1時間以上もの空白の時間がありました。
空襲で焼け落ちた門が通路を塞ぎ、ポンプ車が城内へすぐに入ることができなかったため、消火活動が遅れたのです。

終戦から80年の節目を迎える今、改めて資料をひも解くことで見えてきた名古屋城の天守炎上の裏側。西形さんは戦争を知らない世代にこそ、新たな物語の発見を伝えたいと語ります。
西形さん:
「戦争中の世代がもてなかった視点で、若い世代が歴史を見渡すことができる。そこに大きな意味があるのではないかと思います。(若い世代が)平和な社会を築くことに繋がっていくと期待しています」