
【戦後80年】消えゆく愛知の「幻の飛行場」ポツンと残るコンクリートの塊「戦争遺構」未来につなぐには…

シリーズでお伝えする「戦後80年」。愛知県に、戦闘機が配備された「幻の飛行場」があったのをご存じでしょうか。史料がほとんどなく当時を知る人も減る中で、「戦争遺構が語りかける記憶」が時代の波にかき消されようとしています。

愛知県あま市の田畑が広がるこの場所。
一見なんの変哲もない、のどかな場所に見えますが、今から81年前、太平洋戦争末期だった昭和19年。
この地にあったのは、戦闘機が飛び交う「清洲飛行場」です。
「清洲飛行場だった場所で、あちらに見える黒い建物の奥くらいに、格納庫があって飛行場の建物は、その西に固まって建てられていました」(あま市 生涯学習課 近藤博さん)
市の職員として働く、近藤博さんは、地域に残るわずかな戦争の記憶を後世に伝えようと、15年前から冊子を作るなどの活動を続けています。
Q.飛行場跡だと知ったときはどう思った?
「きれいな田んぼが広がるところだとは思っていたが、ここが飛行場だったと知ったときはびっくりしました」(近藤さん)
田園地帯が姿を変えた清洲飛行場

「清洲飛行場」の目的は、B29の空襲から名古屋を守ること。陸軍の要請により、防空の拠点として作られました。
約200人の人員に加え、当時の最新機だった五式戦闘機などが、20機ほど配備されていたといいます。
運用された期間はたったの1年未満。飛行場が整備されてまもなく終戦を迎え、戦後すぐに元の農地に戻されたため「幻の飛行場」とも呼ばれています。
「斜めに1kmくらいの滑走路があった」(近藤さん)
Q.今、元飛行場のどこにいる?
「真ん中にいます。なんの飛行場の面影もないですけど、出来たときは戦争末期なので、飛行機も貴重だったみたいで、空襲警報が鳴ると飛行場にある戦闘機はすべて神社や寺の林の中に隠していた」(近藤さん)
100歳の“生き証人”が語る記憶

今年、100歳を迎えた、まささん。飛行場ができた当時のことを知る、数少ない“生き証人”です。
「当時は、ほとんど全部が田んぼで何もなかった。こんな飛行場に都合のいいところはない。濃尾平野で最も収穫のいい田んぼだったが、土地が買収されて飛行場になった」(当時の清洲飛行場を知る人 まささん)
まささんによると、ある日突然、軍の関係者がこの地を訪れ、農地として使われていた土地を半ば強制的に買い取っていったといいます。
「麦が収穫の少し前だったがすべて刈って、学徒動員の中学生たちも工事に関わるようになった。反対したらどうなるかわからない。というよりできない、あの時代は」(まささん)
住宅地の中にポツンと残る清洲飛行場の指令室跡

麦畑だった場所から、名古屋を守る防空拠点へ――。
今もこの地に残る“痕跡”が、その異様さを物語っています。
「これが作戦指令室跡です。清洲飛行場のもので、唯一残されている史跡」(近藤さん)
住宅地の中にポツンと残るコンクリートの塊。
今から80年前には、この指令室に将校らが集まり作戦を立てていたことになります。
「半地下の建物で今、見えているのが壁の部分にあたる。中がえぐられていて、そこが指令室になっていた。土をかぶせていて上空から見えにくいようになっていて、左奥が入り口に、そこから中に入れるようになっていた」(近藤さん)
飛行場の痕跡がほとんど残されていないのには、ワケがあったのでは、と近藤さんは感じています。
「地元の人にとっては肥沃な農地で生きる糧だった。それを奪われて飛行場になって、戦後に農地に戻すがあの場所は農地であり続けてほしいという思いがあったのでは」(近藤さん)
失われつつある「戦争の記憶」

そんな場所にも、時代の変化の波が徐々に押し寄せています。
「最近は企業誘致の場所になっていて、物流会社などが入ってきて、大きな会社ができたり道路が作られたり、かつての農地から姿を変えつつある」(近藤さん)
戦後80年。史料も、痕跡も、語り部も少ない「戦争の記憶」は、人知れず、刻一刻と失われつつあります。
「もっとどんどん変わっていくと思う。この面影さえなくなっていくと思うし。でもそれは仕方がないと思うので、できる範囲で伝えられるよう努力していく。撤去になることもあるかもしれない。何とか存在意義を知ってもらって、伝え残すような動きが起こればいいと思います」(近藤さん)