“昭和の日”「戦争は絶対にいかん」慰霊祭で思い受け継ぐ… 遺族の出席は2家族だけに 課題は「慰霊碑の管理」

4月29日は、昭和100年の「昭和の日」。かつては「天皇誕生日」で、太平洋戦争に従軍した人たちにとっては、戦後も特別な日であり続けました。
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思いを受け継ぐ人たちを取材しました。
三河湾を一望できる、愛知県西尾市の三ヶ根山。
(下山申子さん)
「海に向かって自分の戦地が見えるように(慰霊碑を)建てているんだと思う」
東京都に住む、下山申子さん71歳は、毎年4月29日にこの山を訪れています。ここは、旧日本軍にまつわる慰霊碑が多く並ぶ場所です。
(下山さん)
「父が夜うなされるのを母から聞いていた。(父は)無念があったと思う。同じ年代の人が亡くなって、供養をしたいという気持ちもあって、慰霊碑をつくった」
下山さんの父・信乃さんは、大砲を馬で牽引して戦った騎砲兵第四連隊の一員として中国に渡り、戦後、ここに慰霊碑を作りました。終戦から33年後の1978年に戦友会が発足し、初会合には三ヶ根山に約200人が集合。その後も毎年、昭和天皇の誕生日だった4月29日に慰霊祭を開いてきました。
「体験した者でないとこれはわからん」
(下山さん)
「戦争体験の真実を話せるのは、一緒に行った仲間しかできなかった。(集まれる)この日を大事にして話していた」
下山さんは、戦友会の会長も務めた父が亡くなったあと思いを受け継ぎ、毎年、慰霊祭に出席してきました。
(山下茂さん (2013年・当時90歳))
「敵の機関銃が火を噴いた。戦争は絶対にいかん。体験した者でないとこれはわからん」
幸田町の山下茂さんは、仲間との再会を楽しむ一方、戦争の悲惨さを後世に伝えていこうと会の事務局長を務めてきました。しかし、会員は減り続け、戦友会は2013年をもって解散することに。
(山下茂さん 当時90歳)
「1本のたばこを2人で分けてのんだ。その絆は、どうしても忘れませんね」
(尾関克己さん 当時95歳)
「感無量で、なんとも言えません」
最後の戦友会に出席した4人の名前とともに「最後の一兵」と書かれた色紙が置かれました。
「慰霊祭を見守って欲しい」
(下山さん)
「馬砲兵第四連隊の旗。山下さんが病気になったとき、『とにかく持っていて』と託した」
山下さんは生前、隣に慰霊碑のある飛行第50戦隊の遺族で地元に住む、牧野輝久さんにも「慰霊祭を見守って欲しい」と頼んでいました。
しかし、不安をにじませます。
(遺族・牧野輝久さん)
「自分の祖父・曾祖父が戦争に行って、帰ってきたということを知る人が少なくなった。この慰霊碑をどうやって守っていこうというのが一番の課題」
三ヶ根山で29日に行われた、13の部隊の合同慰霊祭に遺族の出席は下山さんと牧野さんの2家族だけ。全国に1万6000基以上あるとされるこうした慰霊碑の管理はいま、難しい課題に。下山さんは孫で中学2年の怜音さんに、思いを受け継いでほしいと考えています。
(怜音さん)
Q. 碑を守っていきたい気持ちはある?
「はい。戦争がこないように祈った」
(下山さん)
「部隊の方全員、二度と自分たちのような経験を若者にしてほしくないと願っていた」
昭和100年の「昭和の日」の29日、下山さんたちは「戦争を繰り返してはならない」という父親世代の願いに、思いをはせていました。