戦後80年企画 米軍B29が愛知県豊田市に墜落 「人間は人間として扱う」アメリカ兵が生き残った理由

80年前、愛知県豊田市にB29が墜落しました。墜落について調査を続ける2人の市民を取材しました。

豊田市博物館で開催されている、戦争に関する資料を展示する展覧会。その一角に置かれていたのは、戦時中に豊田市内に墜落したアメリカの爆撃機「B29」の機体の一部です。

1945年1月3日、名古屋港エリアを空襲するために飛来したB29「The Leading Lady(ザ・リーディング・レディー)」は、日本の戦闘機に体当たりされ、現在の豊田市坂上町の山林に墜落。B29の搭乗員11人が命を落としました。しかし、ただ1人、奇跡的に生き延びた搭乗員がいました。それが、ハロルド・ヘッジス軍曹です。
「なぜ生き延びたのか?」 調査を続ける86歳の思い

なぜヘッジス軍曹は助かったのか。その謎を追い続けているのが、岡田邦雄さん(86歳)です。6歳のときに東京大空襲を経験した岡田さんは、就職を機に豊田市に移り住んで以来、この地域とB29の関わりについて調査を続けています。
岡田さんの調査によると、ヘッジス軍曹は墜落直前に機体から投げ出され、パラシュートで隣の村に降り立ったのではないかといいます。「炭焼き小屋に隠れていたところを地元の住民に見つかり、捕虜となった」。

岡田邦雄さん:
「アメリカ人はなぜ彼が生きて帰って来られたのか、不思議に思ったそうです。彼も当然殺されると思っていたのですが、日本の司令官は、彼らが軍需工場を爆撃したのであって、無差別爆撃はしていないから戦争犯罪人ではないと判断しました。それで斬首を免れたのです」

この調査結果を多くの人に伝えようと、岡田さんは25年前にB29についてまとめたホームページを開設。海外の人にも知ってほしいという思いから英語版のページも立ち上げました。すると、B29の搭乗員の遺族からメールが届くようになり、2012年にはヘッジス軍曹の孫からも連絡が来たといいます。

メールには、戦後のヘッジス軍曹の暮らしや、56歳にがんで亡くなったことなどが書かれていました。岡田さんはいまも遺族たちとのメール交流を続け、そのやり取りをホームページで発信しています。
岡田さん:
「これを読んでもらえば、アメリカ人の気持ちが分かります。彼らも戦争を反省し、『もう二度とやりたくない』と言っています」
敵兵に餅をふるまった村人たち

ヘッジス軍曹について調べているのは岡田さんだけではありません。元高校教師の松原勝己さん(84歳)も、定年後から地域の歴史調査を行っています。

松原さんが地元の人々からB29墜落当時の証言を集める中で、こんな話を聞きました。炭焼き小屋に隠れていたヘッジス軍曹に、地元の人が餅を食べさせたというのです。

「『日本のパンはおいしい』と言って食べたという話が残っています。当時、米兵に対して厳しい態度で接するのが当たり前の状況でしたが、ヘッジス軍曹はある意味ラッキーだったと言えるでしょう」と松原さんは話します。

松原さんに案内してもらい、墜落現場を訪ねると、そこには「B29友好碑」と書かれた石碑が立っていました。平和への祈りを込めて、2010年に建てられました。
松原さんは、この友好碑が教えてくれることについて、こう語ります。
「人間は人間として扱う。敵になることがあっても、亡くなってしまえば同じ扱いをしようという価値観の結果が、この友好碑なのです。この碑を見ることで、一人ひとりが責任を持って平和について考えてほしいと訴えかけているのだと思います」