
"笠松けいばのアイドル"引退 馬と共に過ごしてきた36年間に惜別の時 誘導馬と夫婦の軌跡 岐阜・笠松競馬場「エクスペルテ」「ウイニー」

36年もの間、家族同様に過ごした「相棒」との別れの時を迎えた1人の男性がいます。
「さようなら」は言わず、「ありがとう」と相棒への感謝を繰り返す男性。彼にとって、相棒とは馬のこと。彼は、馬に人生を捧げた騎手でした。
彼が、最後の相棒である2頭の馬との別れを迎えるまでに密着しました。
共に引退する誘導馬2頭と塚本さん

レース前の競馬場で、競走馬の先頭を必ず歩いている馬が、どんな馬か知っていますか?
実は競走馬ではなく、競走馬をコースに先導するための「誘導馬」という馬なのです。

つぶらな瞳でカメラにも熱烈アピールするこちらの馬。
ファンからは「笠松けいばのアイドル的な」「愛くるしいっていうか、表情がいいですよね」という声がきかれました。
岐阜・笠松町の「笠松けいば」では、ファンが大勢いる人気者で、まさに”アイドル馬”なんです。
しかし長年の間、大役を務めてきた誘導馬2頭が、この3月で引退することに……。

家族と一緒に36年間、誘導馬の世話をしてきた騎手も、同時に引退を決意しました。
塚本幸典(つかもと・ゆきのり)さんです。

岐阜・笠松町の中心部。
メインストリートに出る曲がり角から姿を見せたのは、なんと白馬!
横を通り過ぎる車にも驚くことなく、街中を歩いていきます。

町民の女性:
「お馬さんかわいいね~。私たちが話す言葉、わかってるみたい」
昔から街を歩けば、大人気!長年、笠松の街中を歩く馬は「街の象徴」として愛されてきました。

笠松けいばのアイドル馬は、本馬場を疾走する競走馬ではありません。その姿はレース前の競走馬たちの先頭にありました。
この馬の役割である「誘導馬」は、競走馬を厩(きゅう)舎からパドックまで列が乱れないように先導するほか、競走馬が万が一にも逃げ出すアクシデントが発生した場合には馬をなだめて落ち着かせたりなどの対応をします。重要な任務を担っているのです。

笠松競馬場の誘導馬は、「エクスペルテ」と「ウイニー」の2頭。
誘導馬は、たとえ競走馬が興奮したとしても、常に落ち着いて冷静さを保ちます。

塚本幸典さん:
「目は優しい目をしてます」
この馬たちを世話してきたのが塚本さんです。
塚本さんは36年間、笠松けいばで誘導馬の騎手と世話係を務めてきました。

時には馬に乗って町を歩き、「白馬の紳士」として競馬場のPRも行います。
この日は1年ぶりに、塚本さんはウイニーに乗って街を散歩しました。歩きながら、塚本さんはある特別な思いをもっていました。
塚本幸典さん:
「今回でもう最後ということなんですけど。いろいろな思いを噛み締めてます」
エクスペルテとウイニーの2頭は、共に21歳。
人間でいうと70歳近いおじいちゃんです。
体力が衰えてきたことなどから、この3月いっぱいで引退することになりました。
塚本幸典さん:
「僕自身も馬に乗るのはもう最後になるので。今月で」
塚本さんも来年には70歳。
2頭と共に引退することを決意しました。

塚本幸典さん:
「1日中、馬の上に乗っていられる体力がだんだんなくなってきたのと、いい状態で馬とも別れたい。死に別れではなくて、馬に対する未練のようなものが何ひとつない状態で馬乗りを辞められたらと思ってる」

塚本さんは30歳の時、趣味で乗馬を始めました。
しだいにハマっていき、気がつけば馬のとりこに。
塚本さんをこれまで支えてきた妻の祐美子さんは、結婚してからも生活は馬が中心だったと振り返ります。

妻の祐美子さん:
「結婚する前から『馬が一番だよ』って言われてたので。厩舎に住まないと結婚しないみたいなことを言ったので、嫁入り道具は厩舎に入れたんです」
まさに馬に人生を捧げてきた塚本さんですが、引退後の生活には強い覚悟があります。

塚本幸典さん:
「もう馬に関わることはないと思います。(引退する2頭の馬の)もらわれ先も僕は知らない方がいいと思っているので、会いに行くつもりもないです」
2頭の馬が新天地に早く慣れるためにも、塚本さん自身が馬への未練を断ち切るためにも、別れた後はいっさい会わない上に馬には関わらないといいます。
「これからは家族との時間を大切にしたい」と言う塚本さん。
別れの日を迎えた塚本さん夫婦と誘導馬

最後の誘導を行う3月24日。
この日、共に引退する2頭を前に、塚本さんは馬に話しかけます。
塚本幸典さん:
「おはよう。(カメラが)珍しいか?」

いつもと変わらない朝の支度です。塚本さんが見せてくれたのは馬用のゼッケン。
ファンに感謝を伝えたいと、妻の祐美子さんの手作りした物でした。
塚本幸典さん:
「カミさんが作ってくれました。普段は自分で作るんですけど、今回はカミさんですね」
家族の想いも乗せて、塚本さんは最後の誘導に臨みます。

塚本幸典さん
「最後だよ。長かったね。いちばん新参者だったのに。本当によく頑張ってくれました。
でも、今日の最後まで油断できないので」
ウイニーと共に、塚本さんは競馬場へと向かいます。

競馬場には、塚本さんと誘導馬2頭の最後の姿を見ようと、横断幕やプレゼントを持った多くのファンの姿がありました。

ある女性ファン:
「塚さんとエクスペルテ号とウイニー号さん。今までありがとう、という気持ちを込めて絵を描いてきました」
もう1人の女性ファン:
「塚さんがこの2頭を愛してるなっていうのがすごくわかるんですよ。残りの馬生(うませい)を全うして、元気に生きてくれればいいな」

家族やファンが見守る中、塚本さんは最後の誘導の仕事をやり遂げようとウイニーに騎乗します。
競走馬を引き連れ、本馬場に姿を見せた塚本さんとウイニー。

一定のペースを保って列を乱すことなく歩き、確実に誘導馬の役目をこなします。
塚本幸典さん:
「全然やんちゃすることもなく、ずっと淡々に仕事をこなしてくれて。なんか今日が最後だってわかってるのかな」

最終レースに登場した塚本さんは、赤いジャケットを着て落ち着いた様子でウイニーを乗りこなしています。
その表情には笑顔があり、”紳士”らしく凛としていました。

塚本さんとウイニーの最後の仕事姿を見届けた祐美子さん。
妻の祐美子さん:
「最後の誘導なんだなと思ったら、感極まってしまって。笑顔もあったし良かったなと思って。笑顔で終われたってことが一番です」
これまでの思い出がよみがえり、祐美子さんの目には涙が見えました。

レース後にも関わらず、会場に残っていたのは、大勢のファンです。

ファンの要望に応え、塚本さんの手綱さばきで、両前足を跳ね上げさせて後ろ足で立つ「クールベット」を披露するウイニー。
ファンからは大きな歓声があがりました。さらに鼻の上部を撫でさせるファンサービスも。
ウイニーが去る間際には「ありがとうございました」とファンから声援が飛び、塚本さんは「こちらこそありがとうございます」と返しました。

ファンとの最後の時間を終えた塚本さんは、ウイニーに乗ったまま、36年間通った笠松競馬場を後にしました。
塚本幸典さん:
「まさかね、こんなに長いこと馬と一緒に過ごすことができるなんて、夢のような話でした。ちゃんと元気なうちにお別れすることができるので。本当にありがとうとしか言いようがないですね」
家族に支えられながら馬と共に過ごしてきた36年の歳月。生活の中心にいた馬は、家族同然の大切な存在になりました。

塚本さんと馬たちの最後の仕事が終わりました。

それから4日後、厩舎には、ウイニーの体を洗う塚本さんと妻の祐美子さんのいつもと変わらない姿がありました。
実はこの日は、ウイニーとエクスペルテの2頭が県内の乗馬クラブへと譲り渡され、塚本さんの元から旅立つ日です。

祐美子さんはウイニーの姿を写真に収めようと、スマホをかざします。
妻の祐美子さん:
「かわいいね。かわいい顔しとるね、ウイニー。今はそんなに(写真を)撮らないですね。でも、やっぱりたくさん残しておきたいので、最後はたくさん撮っておきたいと思います」

ウイニーの体を洗い終えた後、塚本さんはウイニーのたてがみにはさみを入れました。
塚本幸典さん:
「記念品です。たてがみをひとつかみ、もらって取っておきます」
切り取ったたてがみの一部を、塚本さんは納めました。
ウイニーの隣にいるエクスペルテにも塚本さんは声を掛けます。
塚本幸典さん:
「長生きしなよ。ありがとう」

エクスペルテに抱きつきながら、思い出を噛み締めるように塚本さんは2頭との最後の時間を過ごします。
そして、いよいよ別れの時が来ました。
ウイニーが動揺しないように「よしよし 大丈夫」と塚本さんは声を掛けながら、厩舎に馬をつないでいるひもを外します。
そして、2頭の馬を厩舎から出し、塚本さんと祐美子さんは手綱を引いて、馬たちを連れて行きます。

2頭とも、競馬場で出走する馬を誘導する時とは違い、どこか落ち着きがない様子です。
不安が先走るのか、塚本さんの指示にも抵抗を見せます。
馬を運ぶ馬運車に2頭の馬を乗せようとする塚本さん。まず、ウイニーを誘導します。

塚本さんが手綱を引っ張りながら、ウイニーを馬運車の中へと連れ込みます。
ウイニーが奥へと進んだ後に祐美子さんも続こうと、エクスペルテの手綱を引っ張ります。

しかし、エクスペルテは車の前で乗るのを拒否するかのように、立ち止まってしまいました。祐美子さんは、なんとか車の中に馬を引き込もうとして手綱を引っ張ります。
祐美子さんが引っ張るのをやめると、イヤだとでも言うかのように「ヒヒーン」といななくエクスペルテ。

祐美子さんに代わり、「イヤじゃないよ」と塚本さんがエクスペルテの手綱を引っ張ります。
祐美子さんがなだめるように馬のお腹を軽くたたくと、ようやく車の中に入っていきました。
馬と共に過ごしてきた塚本さんの最後の仕事でした。
「ありがとうな……」
こみ上げる感情を抑えながら2頭の馬を励まし、塚本さんは気丈に振る舞います。
車から立ち去る直前、塚本さんは馬を運ぶ関係者に「よろしくお願いします」と声を掛け、車から降りました。

馬運車の出入り口の扉が閉まりました。
車の小窓から、車の外を見つめているエクスペルテ。

祐美子さんはその姿を見つめ続けていました。

いよいよ車が目的地へと動き出します。2頭の馬は、車が塚本さん夫婦から離れていくにつれて、泣き叫ぶようにいななきました。

2頭の鳴き声が響く中、祐美子さんと2人で塚本さんは、小さくなっていく車を見届けました。

厩舎に戻ってきた塚本さんは、2頭の馬がいた場所を見つめながら、これまでを振り返りました。

塚本幸典さん:
「これにて馬人生は終わります。2頭の馬をけがも病気もなく送り出せたことが、いちばん感無量です。結婚して子どもができて、その子どもたちが育って大人になって、全部が馬のおかげです」