古道を辿ると“地名の由来”が分かる!?徳川家康ゆかりの古道「中原街道」を紐解く旅『道との遭遇』
ミキの昴生と亜生がMCを務める、全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』。今回は、歴史の痕跡を残す“古道”を愛してやまない、道マニア歴26年の荻窪圭さんが、東京に面影を残す「中原街道」を巡ります。
徳川将軍とゆかりのある脇往還「中原街道」

(道マニア・荻窪圭さん)
「江戸時代、東海道の脇往還として使われた『中原街道』を巡って、その歴史を解き明かしたい」

平安時代から存在し、江戸城から徳川の中原御殿(なかはらごてん)があったとされる現在の神奈川県平塚市を結んだ東海道の脇往還(わきおうかん)「中原街道(なかはらかいどう)」。
「江戸城の桜田門から西に向かう道は、東海道の裏ルート的な脇往還として使われた。徳川将軍の家康・秀忠・家光はこの道を通っていたそう。神奈川県平塚市にある中原というところに繋がっていたので『中原街道』と呼ばれた」と荻窪さんは言います。

この街道はメインの東海道と違って参勤交代もなく、庶民の往来に非常に重宝されました。その道筋は現在、政治の中枢である霞ヶ関や虎ノ門、オフィス街や歓楽街の三田や五反田を辿っており、そこにはかつての古道の面影が残っているそう。
そんな大都会・東京に存在する「中原街道」を巡りつつ、各所の地名の由来や道と街との関わりを紐解きます。
旅のお供は、モデル・タレントの新谷(にいや)真由さん。2人は皇居外苑の桜田門から、中原街道を辿ります。まずは、法務省や外務省など国の中枢機関が集まる霞ヶ関へ。

(道マニア・荻窪圭さん)
「この坂は『霞ヶ関坂』。江戸時代は、両側に大名屋敷があった」続いて、文部科学省の近くへ。
(道マニア・荻窪圭さん)
「あれは、江戸城の外濠(そとぼり)にかかっていた門。その名前が『虎ノ門』。ビルの中に、かつての石垣も残されている」

江戸城の外郭門(がいかくもん)の1つであった「虎之御門」。明治以降はその名を地名として受け継ぎ、都内屈指のオフィス街に発展しました。
さらに進むと…

(道マニア・荻窪圭さん)
「中原街道は曲がりながら峠を越える。坂を上るとき、まっすぐよりも斜めに上った方が、傾斜が急じゃなくなるので、昔の道は上るときによく曲がっている」
荻窪さん曰く、坂道を迂回するように伸びる脇道は、傾斜が急な坂を避ける昔ながらの古道の特徴とのこと。三田の近辺にも同じように曲げられた道があり、幅の広い不自然な歩道は、古道の痕跡を示す重要な手がかりだと言います。
続いては、高級住宅街の高輪(たかなわ)へ。坂の上には、「高輪消防署」と右から左に書かれた建物があります。
(道マニア・荻窪圭さん)
「今は『二本榎出張所』という名前に変わっている。この辺りの高台に2本の大きな榎があり、海からもよく見えたので目印になったらしい」

さらに、「縄をまっすぐピンと張ったような一直線の道を“縄手道(なわてみち)”と言う。“高台の縄手道”から、“高輪”と呼ばれるようになった」と言います。
かつて田んぼがあったことが由来している!?「五反田」と付けられたワケとは

その後は、国道1号に合流。長い坂を下って五反田駅の手前へ。「国道1号はまっすぐに突き抜けるが、中原街道は駅の手前の左の道。昔の道筋を残しつつ、新しい道が造られた」と荻窪さん。
ここで五反田の歴史に繋がる重要なポイントが。
(道マニア・荻窪圭さん)
「この辺りがなぜ低くなったのかというと、目黒川が長年かけて削った。川沿いは水があるから田んぼになり、ここには田んぼが約1500坪あった。300坪を昔の単位で“一反(たん)”と数えていたので、1500坪は“五反”。“五反(約1500坪)”の“田んぼ”で『五反田』」

かつて中原街道は、目黒川沿いで作られた野菜や農作物を運ぶ重要な道だったと言われており、その帰りには江戸市民の人糞、いわゆる肥料を持ち帰ったことから“肥やし街道”とも呼ばれ、江戸のリサイクル社会を支えた道でもありました。
その先の中原口交差点では、初見では困惑してしまう光景が。歩道橋の上から覗いてみると…

(道マニア・荻窪圭さん)
「道が複雑に交差している。古い道筋があって、そこに新しい道筋が絡むと、変に土地が余ったりする。歩道が三角に広くなったり、歩道にできない場合は草が植えられたりする」
交差点を抜けると、新旧2つの道に分かれた中原街道。旧道を進み続けると再び新旧の道が合流し、その先に「洗足池(せんぞくいけ)」が現れます。

(道マニア・荻窪圭さん)
「ここは、鎌倉時代の僧・日蓮が足を洗ったといわれる歴史ある池。昔は“洗う足”ではなく、収穫が多い場所ということで“千の束”から“千束池”になったんじゃないかと言われている。少なくとも家康がここを通って江戸に入っていた時は、この池はすでにあった」

最後に、大田区・田園調布へ。中原街道は、ここで再び2つの道筋に分かれます。多摩川の近くで地元の方に話を聞くと、かつての多摩川には幅の狭い橋が架かっており、交通量も多く、子どもだけで渡るのは危険だったとのこと。
その後、道幅が拡幅された「丸子橋」の完成に伴い、この橋を通る道筋が新たに現中原街道として整備されました。
(道マニア・荻窪圭さん)
「ここに“丸子の渡し”という渡し船があって、その船で対岸に渡り、神奈川県平塚市の中原というところまで繋がっていた」

船で多摩川を渡り、平塚市・中原で東海道へと合流する中原街道。終点の中原では、将軍に献上されるほどの名品「成瀬酢(なるせす)」が生産され、その運搬のため「御酢(おす)街道」とも呼ばれたこの道は、地域の産業や暮らしを支え、街の歴史を紡いできました。
CBCテレビ「道との遭遇」2025年11月4日(火)午後11時56分放送より