戦時中の「学校日誌」から見る当時の教育 教師が後悔、91歳女性の忘れられない言葉【戦後80年】

戦時中の小学生の教育は、どのようなものだったのでしょうか。現在の6年生にあたる年に終戦を迎えた女性の証言と、取材の過程で明らかになった貴重な資料から、その実態が見えてきました。
「卒業してから6年生の担任の先生が『戦時中にあんな教育をして、卒業した子の前にどうして顔が出せましょう』と言った」(鈴木静扶さん)
鈴木静扶さん、91歳。
太平洋戦争末期の1945年。愛知県岡崎市の羽根国民学校の、今でいう小学6年生でした。
当時の子どもたちが受けていた、教育とは。
取材する中で、当時の学校生活の実態を記す貴重な資料が明らかになりました。
戦時中の「学校日誌」

岡崎市立岡崎小学校。この学校の金庫に保管されていたのが、前進である岡崎国民学校の、戦時中の「学校日誌」です。
これまで、詳しい調査は行われてこなかったといいます。
メ~テレは、全国の学校日誌を調査する、学習院大学の斉藤利彦名誉教授に依頼し、調べてもらいました。
「(1945年の学校日誌が)残っているというのは貴重なケース。(愛知県で)実物を見たのは初めて」(学習院大学 斉藤利彦名誉教授)
戦災で焼けたり、戦後に処分されるなど、残っていることはめったにないという「学校日誌」。
そこには、戦時下の生々しい教育の様子が書かれていました。
「挺身切込貯金。死ぬような覚悟で貯金する日だよと。お国のために戦費を貯金しようと。初めて見ました」(斉藤教授)
児童も国のために貯金するよう言われていたといいます。
各国民学校がリクルートの役割に

「海軍志願兵打合せ。(各学校に)“何人志願させろ”という、割り当てのようなものがあり、各国民学校がリクルートの役割を果たしていた」(斉藤教授)
当時、国民学校を卒業する14歳になると、任意で海軍の少年兵に志願できたといい、それを学校が促すこともしていたそうです。
日誌には「決戦教育」「軍事教育実践」という言葉が、たびたび見られます。
中には、「敵前武技」「戦技査閲」という言葉も。
「『最後には上陸するアメリカ軍と、本土決戦を行って勝つんだ』と。敵の中に入り込んで戦うんだと。だから薙刀や竹やり(の訓練をさせよう)という風になる。児童にそんなことできますか?でもそれをやるのが大事なんだよということで、当時(教育を)している」(斉藤教授)
機銃掃射で一緒にいた子どもが亡くなる

鈴木さんも、学校で竹やり訓練が行われたことを覚えていました。
「『エイヤー!』とかね。女は竹やり・弓、男は鉄砲、それが体育の時間だった」(鈴木さん)
そんな学校生活を送る中、岡崎を大きな戦火が襲います。
1945年7月20日未明。アメリカ軍が岡崎を空襲。アメリカ軍の資料によると、岡崎を襲った主な狙いは、名古屋の大企業の下請け工場の破壊。
工場が近くにあったからでしょうか、鈴木さんが通っていた羽根国民学校も爆撃され焼失。
その後鈴木さんは、隣にあった岡崎国民学校に通いました。
「自分の学校がどうなってしまったかと思い、焼け跡を見に帰った帰り道、一番後ろにいた子がやられちゃった、一年生。自分が怖いという気持ちが先にたって、申し訳ないけれど、かわいそうだなと」(鈴木さん)
空襲で焼けた学校の様子を見に行った帰り、米軍機からの機銃掃射で、一緒にいた子どもが亡くなりました。
腹部に焼夷弾が直撃し亡くなった教員も

教員も犠牲になりました。岡崎国民学校の教員だった安藤恒夫さん。
「『俺は学校を守りにいく』と」(安藤恒夫さんの息子 安藤恒海さん)
息子の恒海さんらにこう言い残し、学校に向かう途中、腹部に焼夷弾が直撃し亡くなりました。
当時、国民学校の中で一番大事なものは、御真影と呼ばれる天皇などの写真や、教育の指針である教育勅語。
「御真影奉遷式、7月6日ですが、ここで奥殿国民学校の訓導(先生)が来ていて、打合せのようなことをしている」(斉藤教授)
終戦の日の学校日誌

学校日誌などによると、空襲の少し前、市内の複数の国民学校は、一斉に御真影と教育勅語を郊外の安全な学校に移動させていて、無事だったといいます。
鈴木さんは今でも、国民学校で毎朝朗読されたという教育勅語を暗唱できます。
8月15日、終戦の日の学校日誌。
「これはすごいですね、コントラストが。敵前武技をやっている時に、“終戦の詔書”がくだると」(斉藤教授)
その日も女性教員向けの敵前武技の講習が開かれていますが、終戦を告げる玉音放送があったと、別の書体で慌てたように追記しています。
忘れられない言葉

戦争から、1カ月半ほどたった10月。
軍事教育に関する記述は無くなり、自由研究や自然観察などの文字が目立つようになります。
そして年が変わった1月16日、御真影を返還。
返還先は、愛知県庁だったとみられます。
鈴木さんには、忘れられない言葉があります。
「卒業してから6年生の担任の先生が、『戦時中にあんな教育をして、卒業した子の前にどうして顔が出せましょう』と言った。大変な時代を生きてきたと思うけれど、当時は子どもだし、“こういうものだ”と思って、今思えば大変な間違いをしてきたわけだけれど、時の流れというか」(鈴木さん)
鈴木さんは、平和なのびのびとした教育が続いてほしいと願っています。