
14歳の姉、帰ってきたのは名札とあごの骨だけだった 91歳の妹が振り返る80年前の名古屋・熱田空襲

第2次大戦末期の名古屋で、米軍の空襲によって、わずか数分で2200人以上の命が奪われました。「熱田空襲」といわれる惨事から80年が経った6月9日、姉を失った91歳の女性が、母校の後輩たちに体験を語りました。

愛知県大府市の至学館大学で9日、公開授業がありました。
大教室に集まった200人を超える学生や一般の人たちから、大きな拍手で迎えられたのは、伊藤米子さん(91)。
至学館大学の前身の中京女子短期大学の卒業生で、小学校や中学校の先生を約40年務めました。
10代の若者が兵器工場で働いていた

米子さんの3歳上の姉、石原照子さんも、この大学の前身の中京高等女学校の生徒でした。
しかし、学徒動員で働いていた工場で熱田空襲に遭い、14歳で亡くなりました。
製造業が盛んな名古屋市南部は、戦時中に日本軍の兵器をつくる工場が立ち並んでいました。
10代の若者たちは学校で勉強するよりも、兵器の製造を手伝うことを求められました。
照子さんもその1人で、航空機を作っていた「愛知時計電機船方工場」に通っていました。
両親の心配を振り切って工場に向かった姉

戦況の悪化に伴い、名古屋市には空襲警報がしばしば出るようになり、当時11歳だった米子さんは郊外に疎開しました。
1945年6月9日午前9時過ぎ、米軍は愛知時計電機などの工場を狙って爆撃しました。
照子さんはその前日、体調を崩して工場を休んでいました。
9日も両親が心配して休むように言ったものの、「友達に迷惑をかけられない」と工場に向かったといいます。
空襲の後、疎開先にいた米子さんに「照子が戻ってこない」という知らせが届きました。
翌10日、米子さんは自宅に戻り、両親たちと工場に向かいました。
梅雨の晴れ間の暑い日だったといいます。
空襲翌日に見た惨状

「工場の形は全く残っていませんでした。見上げるほどの高さの鉄骨が、あめやジェットコースターのようにゆがんでいました。その鉄骨に、足が1本、引っかかっていました。自転車も吹き飛ばされて高いところに引っかかっていました」(米子さん)
地面は、泥なのか、油なのか、血なのかわからないものに覆われていました。
性別もわからない遺体が散乱している中、米子さんたちは照子さんを探しました。それでも照子さんは見つからず、米子さんは疎開先に戻りました。
照子さんの行方がわかったのは6日後でした。
学徒動員で働いていた男子学生が、「石原照子」と書かれた名札を両親に届けてくれたのです。
「工場の近くを流れる堀川にかかる橋にあった、いかだの下から遺体が見つかったそうです。遺体は腐敗していたため、トラックに積まれて運ばれてしまいました。学生さんは、名札だけ引きちぎって持ってきてくれたんです」(米子さん)
姉は爆風で川に吹き飛ばされた

照子さんの最期について、米子さんはこう聞いています。
「工場の防空壕はいっぱいで、堀川沿いにある防空壕に向かったそうです。でも防空壕に入ることができず、地面に伏せようとしたけれど、爆風で川に吹き飛ばされました。学校の『防空演習』では目と耳をふさいでうつ伏せになるよう教えられていましたが、何の役にも立たなかったのでしょう」
両親は、娘の遺体に会うことができませんでした。
しかし、名札があったことで、火葬された後にあごの骨だけが届けられたといいます。
「名札と骨の一部だけでも親元に戻れたのが、不幸中の幸いでした」と米子さんは振り返ります。
米子さんの父は、照子さんが亡くなった時のことを「悔帳(くやみちょう)」という書面に詳しく書き残し、それは今も米子さんが大事に保管しています。
学徒動員の160人以上が亡くなる

愛知時計電機の工場で亡くなった学徒動員の若者は160人以上。照子さんや米子さんと同窓の中京高等女学校の犠牲者は34人で、引率の先生1人も亡くなりました。
米子さんを授業に招いた至学館大学の越智久美子准教授は、同窓会の協力を得て、中京高等女学校の犠牲者全員の名前を調べ、著書も出版しました。
9日の授業では学生たちと一緒に黙とうし、「80年前は昔でしょうか。昔だからといって忘れていいのでしょうか。私は亡くなった同窓生の名前を調べる中で、すごく身近なことに思えるようになりました」と話しました。
学生たちも千羽鶴を供えて追悼

越智准教授は「近・現代史」の授業でも熱田空襲を取り上げています。
受講する約200人の学生たちと一緒に約1000羽の千羽鶴を折り、5月、熱田空襲の犠牲者を悼む地蔵に供えました。
千羽鶴を折り、お供えにも行った4年生の古間莉緒さん(21)は「いまの平和な日常が当たり前ではないのだと思いました。これからは私たちが伝えていく立場にならなければ」と話します。
また、同じ4年生の杉浦野々香さん(21)は「米子さんのお話を聞いて、戦争の悲惨さと残酷さを実感しました。この経験を生かし、平和のために少しでも行動していきたい」と話しました。
世界各地では、いまも悲惨な戦争や紛争が起きています。
米子さんは、飢えて食料を奪い合うように求める人たちなどの映像に、「子どもの頃を思い出す」と心を痛めています。「もうあの戦争のようなことがあってはいけない。若い人たちにそれを伝えることができてうれしかった」と話し、母校を後にしました。
(メ~テレ 山吉健太郎)