米潜水艦の魚雷で沈んだ学童疎開船「対馬丸」 慰霊碑「小桜の塔」は愛知県民の募金で建立された

2025年6月、天皇皇后両陛下と長女愛子さまが、沖縄県那覇市で戦時中にアメリカ軍に撃沈された「対馬丸」の慰霊碑を訪れて、花を供えられました。実はこの慰霊碑、愛知県民による募金で建てられたことをご存じでしょうか?

沖縄県那覇市にある対馬丸記念館です。
壁面には、遺影が並べられています。

対馬丸の激沈で1484人以上が命を落とし、そのうち1040人が15 歳以下の子どもでした。
太平洋戦争で日本軍の敗色が濃くなった1944年の沖縄では、子供や高齢者の疎開が進められました。
対馬丸は、学童疎開船として8月21日長崎に向けて那覇港から出航。
県内各地の子どもら1788人が乗っていましたが、翌22日にアメリカの潜水艦の魚雷攻撃で沈没しました。

「(鹿児島県の)悪石島から約10キロのところで、(水深)870メートルの海の底に対馬丸が沈んでいるのですよね。その中に対馬丸の子供たちがみんな一緒に」
こう語るのは、対馬丸犠牲者の遺族の外間邦子さん(86)です。
当時10歳と8歳の姉2人が対馬丸に乗船していましたが、2人とも帰らぬ人となりました。
外間さん:「本当に助かったのはわずかで、ほとんどが船とともに(犠牲になった)」
――亡くなったという知らせはありましたか。
外間さん:「わからないですね。ただ、両親が全く無言の状態になったことと、祖母が胸をかきむしって畳の上で泣いている姿がありました」

沖縄の悲しい歴史である「対馬丸事件」は、実は愛知県の人たちとの意外なつながりがありました。
対馬丸記念館の学芸員である嶋袋寿純さんは、「愛知県を中心に募金を呼びかけ、子供たちの慰霊碑が沖縄に建っていて私たちもとても感謝しております」と感謝の言葉を述べます。
ここにあるのは、慰霊碑「小桜の塔」です。
そこには愛知県知事を24年務めた桑原幹根さんの名前があります。
慰霊碑には、“愛知県の児童に広く一円募金を呼びかけて二十余万円の浄財及び資材を集めるに至り” “小桜の塔が建立された”という言葉も。
一円募金を呼びかけたのは、現在の一宮市にあった「すずしろ子供会」の会長であった河合桂さんと愛知県議会議員であった松浦浅吉さんです。
戦争で亡くなった沖縄の子供たちの慰霊碑を作りたいという思いから、現在の価値にして数百万円ほどを集め、1954年に那覇市の護国寺境内に建てられました。
護国寺の名誉住職である名幸俊海さんによると「今はあちらだが、ちょうどこの辺りで先代の住職が“よかったらうちの境内で”とこちらにまつったのがきっかけ」とのこと。
1959年に慰霊碑「小桜の塔」は、護国寺の隣に移され、2004年には、その近くに対馬丸記念館が完成しました。
外間さん:「やはり小桜(の塔)の横、小桜の近くにという、それは譲れなかったですね」

一円募金を呼びかけた河合さんの地元である愛知県 一宮市では、新たな動きが出ていました。
一宮ロータリークラブ 元会長 梯 國彦さん:「これが記念碑で、カンヒザクラがその当時植えたもの」
2021年には、一宮ロータリークラブが「小桜の塔」と愛知県との関係において、その経緯や平和への思いを後世に伝えようと記念碑を建てました。
2022年には、漫画の冊子も作り、市内の小中学生に配布しました。
梯さんは、「小学校の子たちが(思いを)受けてくれて、一つずつ小さいことでも、平和に関する動きや考えが出てくるといいなという思いもあります」と語ります。

2024年、一宮市教育委員会は中学生を沖縄に派遣し、対馬丸記念館や「小桜の塔」を見学しました。
一円募金から始まった愛知県民の平和への思いが今、未来へと繋がり始めています。
来館者:
「争いに子どもたちが巻き込まれるのは、絶対ゼロになった方がいいなと思うし、そうなる未来を(対馬丸で)亡くなった子どもたちも望んでいると思うので」
外間さんは、「対馬丸の子どもたちに会うことで、メッセージやバトンを受けて代わりに平和な時代をみんなで築いていくという対馬丸の子供たちの願いや祈りをしっかり受けてもらいたいなと」と語ります。