
脳梗塞で倒れた元店主「もう一度ラーメンを作りたい」 "ベトコンラーメン"創業家の2代目 入居施設で愛弟子と挑む 愛知・一宮市

愛知のご当地ラーメンとして知られる「ベトコンラーメン」。
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その発祥の店を守りながら病に倒れた男性と、弟子との絆を追いました。
鶏ガラと豚骨ベースのあっさりスープに、どっさりもやしとニラ。そこへ1番の主役、ゴロっと丸ごと入るニンニクが、スタミナと味の決め手の「ベトコンラーメン」。
食べに来た客も、箸が進みます。
(客)
「おいしい」
「何回も食べたくなる味。クセになる」
「都内には無いんで。おいしかったのでもう一回来た」
「これからも食べに来たいですね。命ある限り」
根強いファンの多い、ベトコンラーメン。代表的な店が、名古屋市中川区の「新京 中川店」です。
(新京本店 代表取締役・内田淳一さん)
「食べている姿を見て、『ごちそうさん!』って言ってくれるのがうれしい」
一宮市でベトコン “脳梗塞”で倒れた2代目店主
新京は1969年、一宮市で一号店がオープン。そこで生まれたのが、ベトコンラーメンでした。
店と味を受け継いだのが、2代目の稲垣賀彦さん(現在63歳)。
しかし3年前、稲垣さんは61歳の時に脳梗塞で倒れ、体にまひが残りました。
現在は、施設で暮らしています。
(新京2代目・稲垣賀彦さん)
Q. 体調どう?
「いい。すこぶる元気」
話すことも、手を動かすことも難しく、父から受け継いだ店もやむなく閉店に。生きがいであり誇りだった、ベトコンラーメンを作れなくなったことに初めは絶望していたと言います。
(ナーシングホーム寿々 榊原聖子施設長)
「スタッフにきつい言葉を言ったり、手が出てしまったりとかがあった。本当に苦しかったでしょうし、環境を理解するのに時間がかかった」
愛弟子に送った20通以上の手紙
この稲垣さんの元で修行し、暖簾分けで名古屋の中川店を開いたのが、現在 新京本店で代表取締役を務める内田淳一さんでした。
(内田さん)
「ショックでまさかと思って。まひが残った体を見て、なんとも言えない気持ちになった。仕事をする姿とアドバイスをする姿のイメージが強かったので」
稲垣さんは倒れたあと、内田さんに多くの手紙を送っていました。
手紙には何度も「中川さん」という文字が。これは、中川店を営む内田さんのこと。
動かしづらい手で、懸命に描いた文字。そして、ラーメンの絵も。
(内田さん)
「不自由ながらも頑張って書いてくれた。『中川さんお見舞いありがとう。①謙虚な努力 ②大きな目標を持つ ③嘘のない誠実さ この3つが新京繁栄の法則です。よろしくお願いします』と書いてあります」
「バリバリ仕事がやりたいんだっていうのはすごく伝わる。だけどこういう想いを忘れていないっていうのが素晴らしい」
「食べたいんじゃなくて、作りたい」
稲垣さんが暮らす施設では、入居者に食べたいものを聞くという取り組みを行っています。稲垣さんに聞いてみると…
(稲垣さん)
「食べたいんじゃなくて、作りたい」
願いは、店に立っていたときと同じように「鍋をふるって人を喜ばせること」。
施設側も、その想いを叶えることに…
この日、内田さんは、自分の店で“多め”に仕込みを行っていました。稲垣さんの施設へ持っていくためです。
稲垣さんのもう一つの希望は、昔のように「内田さんと2人で厨房に立つこと」。その想いに応えます。
材料を車に詰め込み、稲垣さんが待つ施設へ。
“愛弟子”と作るベトコンラーメン
(内田さん)
「兄貴どうも!お元気ですか!」
稲垣さんも愛弟子に会い、笑みがこぼれます。
そして、いよいよ…内田さんに支えられ、鍋に向かう稲垣さん。
たっぷりのもやしを投げ込むと、昔の様に鍋をふるいます。調味料の分量も、体が覚えています。
言葉は交わさなくても、“愛弟子”との息はぴったり。
人生そのものだった「ベトコンラーメン」の出来上がりです。
「1人でも多くの人にベトコンを」
作ったベトコンラーメンは、入居者や施設のスタッフに振る舞われました。
(入居者)
「おいしい、おいしいよ」
この日、厨房でずっと稲垣さんの体を支えていた介護士の浅井さんも…
(ナーシングホーム寿々 介護士 浅井龍さん)
「おいしい。辛いのがちょうどいい」
食べた人が笑顔になる姿を見て、喜びが込み上げます。
(内田さん)「久々にお仕事したね。お仕事楽しいね」
(稲垣さん)「ありがとう」
「1人でも多くの人にベトコンラーメンを知ってもらいたい」と、今でも施設の人に話している稲垣さん。病を機に閉店した、一宮店をもう一度復活させたいと、今も週2回のリハビリに励んでいます。