「大好きなので輪島に戻りたい」 能登半島地震に被災し「ふるさと」を離れ愛知で暮らす人の思い

去年(2024年)元日に発生した能登半島地震から1年2カ月が経ちました。大きな被害を受けた地域では、石川県外に移り住む選択をした人たちもいます。石川県が2月発表した県内の人口の推計によりますと、能登半島地震の被害が大きかった6つの市と町の人口は11万2148人で、24年の元日時点から7502人減りました。減少した数は24年の同じ時期に比べて約1.7倍です。
石川県が発表している人口の推計には住民票を移さない移動は含まれていないため、実際にはさらに多くの人が地震のあと、大きな被害を受けた被災地から離れているとみられます。長年住んだ輪島市を離れて愛知に移り住んだ被災者を取材し、ふるさとへの思いを聞きました。

名古屋市の不用品回収などを手がけている「グッドサービス」。24年に入社した澤田慎一郎さん(51)も、能登半島地震の被災者の1人です。
澤田慎一郎さん:
「思い出すたびに涙が出ます」

自宅が一部損壊の判定を受けて、大家から退去を求められました。しかし、仮設住宅には「半壊以上」という条件を満たしていなかったため、入ることができませんでした。
住む家を失い、どう暮らしていけばいいのか悩んでいた澤田さん。そんなとき、今の職場の社長で友人の山村秀炯さんに仕事を紹介してもらい、家族全員で住むことができる愛知に引っ越すことを決めました。
2拠点に分かれて避難生活

澤田さんは2024年8月から愛西市にある自宅で妻と4人の子どもと一緒に暮らしています。この日は、次女・ゆきのさんの誕生日です。
澤田さん:
「2024年の誕生日は結局『ママに会いたい』って言って。2時間くらいかけてママに会いに輪島に戻りました」

地震のあと、澤田さん一家は2つの拠点に分かれて避難生活を送っていました。地震の発生から1カ月ほどは輪島市内の避難所で避難生活を送っていましたが、2月からは通学などの関係で、澤田さんと子ども3人は加賀市の旅館へ。輪島市の職員だった妻は、避難所での仕事があるため、幼い次男とともに輪島市に残りました。

澤田さん:
「離れ離れになっていると、考え方がずれたりじっくり話し合ったりすることができませんでした。やっぱり(家族で)一緒にいるのが一番いい。去年はみんながそろうことなく、特に子どもたちはお母さんと一緒に誕生日を迎えたかったというのが去年もあったので、みんなでお祝いできたことはいつもの倍うれしいですよね」
輪島に行くと、苦しくなって帰ってくる

地震から1年2カ月。澤田さんは輪島を離れても、いつもふるさとのことを気にかけています。
この誕生日会の数日前には、家族そろって輪島市を訪れていました。ふるさとには、地震から1年以上経ってもなお、発生前とは程遠い生活を続けている人たちがいるからです。

澤田さん:
「公費解体をしたことを後悔した人も今増えています。資材が高騰したり(建設業の)人手不足だったり、すぐには(家が)建たないし、安くも建てられない。輪島を離れるしかないのかと言っている友だちもいます。(輪島に行くと)久々に会えてうれしいですが、すごく苦しくなって帰ってきます」
「生まれ育った場所で人生を終えたい」

1日も早いふるさとの復興のために、澤田さんは現在の勤務先の協力も得て、定期的に輪島へ戻っています。ふるさとで地震や豪雨の被害に遭った住宅の片付けや物資の提供などの支援を続けています。
澤田さん:
「とにかく自分ができる支援やサポートはやり続けたいです。時間が経てば経つほど、それは忘れてはいけないと思います」
これからの生活について澤田さんは、愛知を拠点にしながら「 “ついの棲家”という意味では、最後は輪島に戻りたい」と話します。

「(輪島が)すごく大好きなので、やっぱり生まれ育った場所で人生を終えたいです」