
“侵略者”か“被害者”か…満州で家族全員を亡くした89歳が語る「満蒙開拓団」の悲劇 衰弱した弟妹の体からウジ虫を取る日々「話せば眠れない、それでも語り継いでいく」#戦争の記憶

名古屋市内に暮らす橋本克己さん(89)。自宅には84年前に撮られた家族写真が飾られています。実は、写真に写る両親や兄弟のなかで戦後生き残ったのは橋本さん、ただ一人。
当時、家族が移り住んだのは約2000キロ離れた旧満州。そこで一体、何が起きたのでしょうか。
語られることがなかった開拓団の歴史。橋本さんは沈黙を破り、悲痛な戦争の記憶を語り続けています。そこには次の世代につなげたい、ある思いがありました。
夢を抱いて渡った満州だったのに…家族で生き残ったのは一人だけ

1931年に起きた満州事変。日本は中国人の土地を占領し「満州国」を建国しました。
戦時中、現在の愛知県新城市を中心に549人が『東三河郷開拓団』として中国の東北部に渡りました。橋本さん一家もこの開拓団の一員として満州へ移住。
当時は、農村の経済立て直しやソ連からの北方防衛などを目的に、農民500万人を移住させる計画を国が推し進めていて、国策映画では、田畑で作物をつくり輪になって踊る開拓団の姿を映し出し、満州に行けば順風満帆な暮らしができると印象づけていました。
橋本克己さん(89):
「自分の土地がもらえるって、しかも20町歩。当然飛びつくだろうと思う」
今でいうサッカーコート約28面分の土地をタダでもらえると言われ、当時、自宅が火事にあい何もかも失った橋本家は、千載一遇のチャンスとばかりに家族7人で満州へ渡ったのです。

しかし、現実は厳しいものでした。中国人から奪った土地はジメジメとした湿地帯。よく肥えた土地だと聞かされていたのに、とても農作物を作れるような環境ではなかったのです。
十分とは言えない生活を3年ほど続けたある日、日本が戦争に負けたという知らせが届きました。すると、これまでの形勢が一気に逆転。侵攻してきたソ連軍や現地の住民に集落が襲われ、金品や食料などを奪われてしまいました。
橋本克己さん(89):
「生かすも殺すもの権利を日本人が握っていた。終戦を境にその権利が現地の人(中国人)に。敗戦民族のたどる地獄道が始まった」

この危険な状況から逃れるため、橋本さん一家は200キロ離れた日本人が集まる都市への移動を決断。終戦翌年の2月、1か月かけて家族全員で到着しました。
しかし、ここでの暮らしは当時10歳だった橋本さんに想像を絶するつらい記憶を残すことになります。
不衛生なため伝染病が流行し、祖母・二男と長女が亡くなりました。そのわずか数か月後には、父と母も病気でこの世を去ったのです。残ったのは橋本さんと4歳の弟、2歳の妹だけ。そんな2人も…
橋本克己さん(89):
「衰弱していてもう寝たきり。目尻から鼻から口から耳から、ウジ虫がはいでる。それを取ってあげるのが私の仕事だった」
しばらくして栄養失調などで亡くなりました。土を掘る力もなく、2人の遺体はそっと置いてきたと、橋本さんは語っています。

父母の死から1か月、橋本さんは日本に戻ることが決まりましたが、家族で生き残ったのはただ一人…
橋本克己さん(89):
「この一生を振り回されたという気持ちとともに、戦争のむごたらしさ、悲惨さ、むなしさを嫌というほど感じた。国策なんて責任があってないんだから」
『東三河郷開拓団』として生きて帰ってこられたのは、橋本さん含め252人。半数以上が満州で亡くなりました。
壮絶な過去を語り始めたワケ「死ぬ前日まで」

今年4月、新城市にある石碑の前で、毎年恒例の慰霊祭が行われました。開拓団として満州に行った人で、参加できたのは橋本さんのみ。
橋本克己さん(89):
「10年たったらほとんどいなくなるでしょうね。どのようにして伝えていくか、残された私たちの課題ですが、なかなか難しい問題があって、伝えていくのが大変困難だと思ってます」
甚大な被害をもたらした国の政策にも関わらず、どうして伝えていくことが難しいのでしょうか。

開拓団に関する資料や写真を展示する満蒙開拓平和記念館の三沢亜紀さんによると、あまりにも悲惨な記憶なので話したくないという人や、話しても理解してもらえないと思う人は多いということです。実際、橋本さんも家族には話せていません。
さらに三沢さんは、開拓団の経験を語る難しさについて、こんな見解も。
満蒙開拓平和記念館 三沢亜紀さん:
「開拓団も侵略者であった。開拓団の人たちはものすごい苦労したけれど、自分たちの被害を被害として語れない難しさ」
国に見捨てられた”被害者”。その一方で、中国人の土地を踏み荒らした“侵略者”と言われたのです。
橋本克己さん(89):
「自業自得みたいな言い方をされた人も『子どもだから責任ないでいいでしょ?』は私には通じない。生涯かけてもやっぱり思い続ける。脳裏から消えることのないできごと」

複雑な事情からあまり語られてこなかった『東三河郷開拓団』。しかし、橋本さんは「若い世代に戦争に行ってほしくない」「自分が話さなければ悲惨な事実が消えてしまう」という思いから、10年ほど前に自分の体験を話すことを始めました。
9月には90歳を迎えますが、それでもなお依頼が舞い込めば、次の世代に向け伝える活動を続けています。今年6月にも名古屋市天白区の名城大学で講義を行いました。
橋本克己さん(89):
「話をすると興奮して眠れない。それでもいいから語り継いでいこうと思って。話ができるまで、死ぬ前日までやりたい」
打ち明けられるようになった癒えることのない記憶。次の世代に少しずつ受け継がれ始めています。