
ジャングル潜伏28年 残留日本兵・横井庄一さん「恥ずかしながら、生きながらえておりました」記念館は閉館 戦争の記憶どうつなぐ【戦後80年】

終戦後もグアム島のジャングルに28年も潜伏していた残留日本兵・横井庄一さんは、帰国後は、故郷名古屋で平和の尊さを伝え続けました。しかし、その思いの継承は困難な状況です。
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(玉音放送)
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」
80年前、太平洋戦争が終結。しかし、終戦から四半世紀以上も、南方の戦地・グアム島のジャングルに身を隠していた残留日本兵がいたこと、みなさんは知っていますか?
名古屋の街で聞いてみると。
(30代)「知らない」
(20代)「あまり知らない」
(20代)「(Q.28年間、グアムで終戦を知らずに過ごして…)え!」
その日本兵は1972年1月、島の住民に捉えられ、翌2月に帰国。
「グアム島の横井庄一さんが鳳詔以来、実に31年ぶりに、たった今、日航の特別機でこの羽田空港に帰ってきました」
1944年7月、アメリカ軍5万5000人の上陸作戦が始まった“グアムの戦い”。占領統治していた日本軍はわずか3週間で壊滅状態に。2万人以上が死亡しました。
「恥ずかしながら、生きながらえておりました」
ふるさとの人も帰国を見守っていました。
「歓迎のアーチもこの千音寺、横井さんの住んでいらっしゃる町内の東ノ割部落という40戸ほどの部落ですが、総出で作りました」
男性の名は、横井庄一さん当時56歳。出征前は洋服の仕立てを生業にしていました。ようやく終わった横井さんの戦争。この日の会見で発した一言は流行語に。
(グアム島に28年潜伏 横井庄一さん)
「恥ずかしながら、生きながらえておりました」
(20代)「なんか聞いたことある」
(60代)「世の中では、戦争が終わったとなっていたけど、横井さんが帰国したことで本当の意味で戦争は終わっていなかったと」
(横井庄一さん)
「最終的には…10名になり、5名になり、3名になり…だんだんと(仲間が)減っていった」
28年のジャングル生活のうち、最後の8年はひとりぼっち。帰国後は講演活動にひっぱりだこでした。
そばには、帰国した年に見合い結婚した13歳年下の妻・美保子さん(当時44歳)が寄り添っていました。
ジャングル生活は過酷。地面に小さな穴を掘って身を隠し、食事は川エビやネズミ、蛙などの小動物、主食はソテツの実をすりつぶし団子状にしたもの。服は木の繊維をはいで編み込んだ手作り。なぜ、潜伏しつづけていたのか。
「戦争が終わったとはっきりわからなかった。10年たったら、日本軍が盛り返して、救いの手が来ると。20年たてば来るだろう。そういう計算をしていた」
横井さんは「戦陣訓を本気で信じていた」
今、横井さんの気持ちを代弁する男性が広島市にいます。
大学教授の幡新大実さんは、横井さんの妻・美保子さんの甥です。
これまで横井さんの手記「明日への道」を英訳し、帰国後の様子も書き添えた本をイギリスで出版するなど、研究活動は海外でも知られています。
(横井さんの妻の甥 幡新大実さん)
「横井さんが帰国した頃の新聞記事を読んでいると、“戦陣訓”に縛られた兵隊たちの話がよく出てくる」
横井さんたち日本兵を縛りつけていたのが「戦陣訓」。軍人の綱紀粛正のために作られた訓令です。有名な一節は「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。
「捕虜になるくらいならば、自ら命を絶て」という教えです。
(幡新さん)
「戦陣訓を破ったから、殺されることはない。軍法会議にかけられるとかそういうことはありえないと、将校はわかる。将校はすぐに判断ができるので(敵に)白旗をあげることに抵抗はない。一般兵士はわからない。(戦陣訓を)本気で信じていた」
幡新さんは、この一節の直前の言葉も重いと言います。
「常に郷党家門の面目を思ひ、いよいよ奮励してその期待に答ふべし」
これは「故郷や家族の名に恥じないよう、一生懸命努力せよ」という意味です。事実上の母子家庭で育った横井さんは、国にいる母親のことが戦地でも頭から離れるわけがないと話す幡新さん。
(幡新さん)
「自分がもしアメリカ軍に捕まれば、一族郎党・自分の家族にどういう迷惑がかかるかわからない、お母さんに迷惑がかかったら大変なことになると」
国は1944年に横井さんたちは「戦死」したとしました。
墓には「戸籍上にはない「点」がある」
母・つるさんは、終戦から約10年がたってようやく息子の墓を建立。しかし、その後も「息子は生きている」と度々口にしていたそうです。その思いは、墓石を見ればわかると話す幡新さん。
(幡新さん)
「よく見ると、横井庄一の『庄』の字に戸籍上にはない「点」がある。“あの一点”を、横井庄一さんが生きて帰ってきて見れば『自分の墓ではない』と思う。自分の字ではないから。それくらいの意味がある」
墓石の文字は「庄一」と読めるも、息子、庄一の墓ではないという母の強い思いがくみ取れると言います。
(幡新さん)
「あえてそこまでやっているのは、相当強い確信がないとできない。生きていると。その思いが息子に伝わるような一画になる」
横井さんは、母つるさんが他界して14年後に帰国。東京の病院で80日あまり静養したのち、ふるさと名古屋へ。実家にたどり着く直前に横井さんが立ち寄ったのは、横井家の墓。
(横井さん)
「親孝行もできなくてすみません。でもやむを得ないです。お国のためにご奉公したんですから。お母さん、勘弁してください」
(幡新さん)
「国の行為で、ここまで個人は振り回される。その大きさに響いてくるものがあるなと」
幡新さんが、横井さんの遺品の中から今回、特に見てほしいと言ったのが…
“仲間の最期” 遺族に伝えるため
(幡新さん)
「(グアム島で)昭和19年のいつに部隊の誰がどこで亡くなったか、どこで生き別れたか、そういう記録」
横井さんはグアムの戦いでの仲間の最期がどうだったのか、遺族に伝えるため記憶をたどって記していたのです。帰国会見の日も、その思いは伝えていました。
(横井さん 帰国後の会見)
「私の知っている範囲で、遺族の方を訪問させていただいて、グアム島であなたの所の息子さんは大体こういう所で死んだんだろうと…」
“平和の尊さ”を伝え続けるという横井さんの思いは遺言にもなり、妻・美保子さんが「語り部」として長年つないできました。
横井さんが亡くなった9年後。美保子さんは自宅を一部を改装し「横井庄一記念館」としました。
“戦争の記憶”どうつなぐ
(美保子さん 当時78歳)
「皆様が横井庄一の苦難の人生の一端を少しでもわかってくださって、ご自分の心の糧にしてくださったら、本当にうれしく思います」
横井さんが潜伏した手掘りの穴の原寸大の模型を置き、毎週日曜日には無料開放しました。
しかし、月日は流れ…
(幡新さん)
「12年間92歳まで(記念館を)一人で切り盛りしてきた。すごい人だなと。本当に頭が下がる思い」
2022年、美保子さんが亡くなると記念館も完全に閉館。
今月6日に撮影した横井庄一記念館は、草木が生い茂った状態に。語り部なき、この先は…
(幡新さん)
「叔母(美保子さん)には、本物の戦争体験があった。その背景があるから(記念館は)叔母がいて初めて成り立つ。私が継いで話ができるかというと…」
生きながらえて「恥ずかしい」と言わせる戦争。私達の国は大きな間違いをおかしました。