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“名古屋めし”が戦後の食糧不足を救った 屋台から始まった「どて焼き」をたどる【戦後80年】

メ~テレ
06.13(金)22:24

名古屋のご当地グルメと言えば、知名度は全国区の「名古屋めし」。これが戦後の市民を支えたとも言われているんです。

 ボリュームたっぷりの「味噌カツ」に、あつあつの土鍋で食べる「味噌煮込みうどん」。

 いまや全国の人たちから愛されている「名古屋めし」。

 戦後の混乱期から立ち上がろうとする人たちを支えたメニューがあったんです。

 創業100年。名古屋市千種区にある味噌煮込みうどんの老舗「山本屋 大久手店」。

 3代目店主の浅井仲治さん(86)と妻の昭代さん(82)。第2次世界大戦が終わった1945年当時は、まだ子どもでした。

 思い出すのは、深刻な食糧不足です。

「栄でも、爆弾が落ちたりして空き地がたくさんあるから、(畑にして)サツマイモや枝豆を作って、葉っぱや軸(芋つる)を食べたんじゃない?」(昭代さん)
「食べる物がないからね。食べられるものは何でも『おいしい』と食べてしまう」(仲治さん)

Q.戦後、外食はできた?
「外食なんて…露店くらいだね」(仲治さんと昭代さん)

日没とともに現れる”夜間だけの飲食店”

名古屋市中心部の屋台は最盛期に1000軒を超えたという(名古屋タイムズアーカイブス委員会所蔵)

 名古屋空襲で焼け野原となっていた、広小路通や大須などの中心部。

 日没とともに姿を現す”夜間だけの飲食店”として、「露店」いわゆる屋台が並びました。

 名古屋市博物館によると、最盛期には1000軒を超えていたといいます。

「“名古屋めし”の底力かもしれん。人間がこんなに戦争で辛い思いをしてきたんだから、みんなで這い上がるんだという気持ちだった」(昭代さん)

 山本屋の夫婦は当時、「屋台は仲間だった」と話してくれました。

 一方、名古屋めしの代表ともいえる「矢場とん」も、屋台から始まったといいます。

「屋台を引いていたというのは聞いているので、屋台から始まったんでしょうね」(矢場とん3代目 鈴木拓将さん)

 さらに…。

「串カツを揚げて、“どて焼き”に落として食べてみたら『これうめ~じゃん』というのでみそカツが始まったと言われているくらい」(鈴木拓将さん)

 鈴木さんによると、「矢場とん」の味噌カツは、屋台の”どて焼き”に串カツを入れたことで誕生したといいます。

 当時の”どて焼き”とは、今で言う「みそおでん」。戦後、市民を支えた「名古屋めし」の代表ともいえる存在でした。

屋台の定番メニュー”どて焼き”

戦後間もなく名古屋の屋台街で「島正」を創業した喜邑信彦さん(提供:島正)

 そんな”どて焼き”を戦後の屋台で提供していた、名古屋市中区の老舗「島正」を訪ねました。

 店の2代目・喜邑定彦さん(79)。1949年の創業当時、屋台があった場所まで案内してもらいました。

「この辺りにちょうどあった。(屋台のサイズは)2mかそこら。終戦が昭和20年だから、昭和22~23年の時代。屋台を組むための暖簾も柱もない、何一つない時代だから、焼け残った物を持ってきて何でも作ったんだよ」(喜邑さん)

 当時、納屋橋から栄の丸栄百貨店までの1.5kmの間に、約400軒の屋台が道路の両側に並んだといいます。

 そんな屋台街で店を始めたのが、定彦さんの父・信彦さん。

「私の親父は戦争に行っているんだわ。帰ってきたら、会社がほとんどなくなったような状態だから、雇ってもらえない。ただ明日の食べ物を何とかするため、生きていくために必死だった」(喜邑さん)

 戦後を生き抜くために始めた人が多かったという屋台。

 約6割の屋台が出していた定番メニューが、手軽に作れる「名古屋めし」、”どて焼き”だったそうです。

戦後の屋台流の”どて焼き”を再現

再現した屋台流”どて焼き”。味は今とは全く別だったという

 当時の屋台流の”どて焼き”を見せてもらうことに。

「これが”どて焼き”。(現在は)宴会の時に出すものだが、このような形で屋台の鍋が作られていた」(喜邑定彦さん)

 6人用の鍋に、みその味が染み込んだこんにゃくや豆腐、大根などの串が沢山入っている”どて焼き”。戦後の屋台でも、見た目は現在とほぼ同じだそうですが…。

「中身は似て非なるもの。全く別物と言ってもいい。何かというと味。何でもええから食べられる物があったら食べたかった時代だから、とにかく甘いもの、辛いもの、味が濃いものを求めていたんだよ」(喜邑さん)

Q.食に飢えている人には濃いものが好まれた?
「そりゃおいしいものを食べたいのは誰だってそうだけど、おいしいよりとにかく腹がふくれた方がいいじゃない」(喜邑さん)

受け継がれた“名古屋めし”

「島正」2代目店主の喜邑定彦さん(右)と3代目を継いだ竜治さん(左)

 屋台のお客さんは、繊維問屋街の職人や広小路通で働く会社員、御園座の役者などさまざま。戦後、名古屋の復興を担ってきた人たちは、味の濃い”どて焼き”を求めて屋台を訪れたそうです。

「(繊維問屋街で)丁稚奉公しとった人、当時は17~18歳だろうな。お金がないと金がないけども、客として来て食べるじゃん。10本(串を)食べても、5本下に捨てちゃえば5本の勘定じゃん。親父は『串を捨てたって、ちゃんと分かっとるんだで。もうええで、そんなコソコソするな』と言って、特に安く食べさせてあげたりさ。『みんなでとにかく助け合って、生きてこみゃあか』というような、そんな感じだったんだと思うよ」(喜邑定彦さん)

 名古屋の復興とともに歩んできた屋台。名古屋市博物館によると、1973年、屋台は都市景観や衛生環境などを理由に廃止されました。

 それでも「名古屋めし」は今に受け継がれています。

「愛・地球博で“名古屋めし”という言葉が出たが、父や祖父、先代、先先代、その前から地元の人に愛され守られる料理として守ってきてくれたからこその“名古屋めし”ですよね。“名古屋めし”を発信する、広めていく、守っていく。そのような覚悟を持ってやっていこうかと思います」(3代目を継いだ喜邑竜治さん)

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