
「私だって普通に生きたい…」 遺族に押し寄せた報道陣 それでもカメラの前に立ち続ける理由 豊明母子4人殺人放火事件から21年

どんよりとした灰色の雲と、夏の気配を残す青空が交互に顔をのぞかせていた9月9日。住宅街の一角で、毎年この日に手を合わせる女性がいます。

天海としさん
「まず最初にごめんねと言いました。いい報告できなくてごめんねって」
天海としさん(63)。「ごめんね」と伝えた相手は、突然別れを迎えた妹とその子どもたちです。

天海としさん
「今から21年前、この場所で幼い3人の子ども、そして私の妹が何者かに殺害されました。事件は未解決のままです。末っ子の二男は9月9日が誕生日、まさにその日9歳になるはずでした。元気で生きていればきょうで30歳です。ただ、普通に生きていたかっただけです。普通に生活していたかっただけです。なのに、理不尽に命を奪われました。」

2004年9月9日未明、愛知県豊明市沓掛町の住宅が全焼。
焼け跡から天海さんの妹・加藤利代さん(当時38)と、その長男・佑基さん(当時15)、長女・里奈さん(当時13)、二男・正悟さん(当時9)の4人が遺体で見つかりました。
利代さんと里奈さんの体には10か所以上の刺し傷があり、佑基さんと正悟さんは鈍器で頭を殴られていたといいます。
警察は殺人と放火と断定し、特別捜査本部を設置。
これまで、のべ5万8000人以上の捜査員を動員していますが、事件は未解決のままとなっています。

事件が起きた9月9日。毎年この日には、4人の自宅跡地で献花式が開かれています。
利代さんが好きだったというカサブランカが供えられるのが恒例です。

21年目の今年、白い花のそばに、黒く汚れたおもちゃの人形が置かれました。正悟さんがよく遊んでいたもので、天海さんが焼け跡から見つけたものだといいます。
「ジャジャーン!」
内緒で用意した誕生日プレゼントで驚かせるかのように、人形を取り出した天海さん。正悟さんの写真に語りかける表情は、優しい笑顔でした。
毎日、何十通もメールのやりとりをしていた天海さんと利代さん。頻繁にお互いの家を行き来し、天海さんにとって、3人のおいとめいは、自分の子も同然だったといいます。
そんな家族4人を突然失ってから21年の時が流れました。

あのときから変わらないこと、犯人への思い、マスコミへのメッセージ…天海さんの今の心境を聞きました。
■事件発生から21年。今の心境は?
「気持ちはあまり変わっていないんですよね。ずっとスタートラインに立って足踏みして一歩も動けなくて、位置について…というような21年間だったので。今から落ち着いてちょっと2人で遠出したり、温泉行ったりできる時期に、ぱさって4人を持って行かれてしまっているので。喪失感は言葉では言えないですね。守ってやれ
なかった自分が許せなかったですね。長いこと自分を責めました」
■21年たってその気持ちに変化は?
「ないですね。守ってやれなかったことが悔しいし、犯人が許せない気持ちは最初から今も一緒です」
去年は事件発生から20年。“節目”ということで、多くのマスコミが連載や特集を組みました。しかし、それから1年たった今年、取材に訪ねてくるメディアは少なくなったといいます。
■去年は事件から20年、“節目”と感じた?
「節目節目っていいますけど、ないですね。犯人捕まってないですもんね。多分犯人が捕まると、そこで『よーいドン』で走り始めるので、もしかしたらそこが節目になるかもしれないですね」
■事件発生時の心境は?
「よくドラマとかである、腰を抜かすっていう感じあるじゃないですか。すとーんって腰抜かして、体の中に大きな穴がポンって空いて。何が起きてどうなっているのかがまったく信じられなかったですね。うそだと思っていて、極端な話、葬儀をやっている最中も何で自分がここに立っていて、4人の遺影があそこにあるの?っていうような。昨日しゃべったのになんでっていう、おかしいよねっていう、全く信じられないですね。特に遺体とかを確認していなかったのもあるかもしれないですけど、長い時間、まったく信じることができなかったです」
■犯人に対して思うことは?
「事件直後から今もずっと一緒ですけど、3人の子どもの命を奪っていますから。しかも無抵抗な状態で命を奪っている犯人に対してはどんな思いで子どもたちの命を奪っていったのか。どんな思いで火をつけて逃げたのか、本当に計り知れない、普通の人ではできないと思います。3人の子どもを一瞬にして殺害して、妹と里奈は必
要以上に刺されていますし、妹も最後まで抵抗したみたいな感じでずいぶん煙吸っていたみたいなので、どんな思いで死んでいったかと思うと、(犯人は)人じゃないなと思います」

事件解決の糸口を求め、天海さんは毎年、現場周辺で情報提供を求める広報活動を行っています。
去年までは天海さんの母も参加していましたが、今年は体調不良で初めて参加できませんでした。

事件からの日数をカウントするスマートフォンの画面を眺めながら、天海さんは、事件が風化することへの焦りを口にしました。
天海としさん
「このまま終わるんじゃないかなとか、犯人捕まらなかったらどうしようとか。自分のモチベーションをずっと犯人や事件に向けるのは難しいんです。時々、もしかしたらダメなのかなって思うときもあるので。そういうときは(この画面を)絶対見る。へこんでいるときに見ることが多いですね。へこんでいるというか負けそうな時
って言うのかな」
「21年って言葉では数秒で終わりますけど、年がたっているな歳月たっているな、忘れられているなというのはすごく思います。メディアの方たちにもそういうのは感じるところでもあるし、忘れられているのではないかというのはすごく感じます」
■事件発生当時の取材で覚えていることは?
「誰でもいいから行ってこいみたいな感じで、ものすごい人数のメディアが来たので、どこの社というのは覚えていないんですけど。例えば子どもたちの名前を知らなくて間違えていたりとか、時を構わず取材に来られたりとか、私の子どもに取材をしようとしたりとか、学校とかも行けないんですよ、(報道陣が)待っているので。ところどころにいたりして、ものすごく大変だった」
■それでも取材を受けようと思った理由は?
「メディアの人がいないと風化してしまうんですよね。メディアの人がいるから、この子たちが生きた証を伝えてもらえるんですよ。母子4人殺人放火事件というのがあって、犯人がいて、捕まっていなくて、『みなさん情報をください』と言ってくれるのはメディアの人しかいないと思っていて。自分はなんでこうしてメディアに顔
を出しているのっていうと、私だって本当は嫌ですよ、普通に生きたいですよ。でも、この子たちは声を出せないじゃないですか。声なき声を伝えたいという、ただ一心で、自分のやれることはこれしかないと思っているからやっているだけで、本当は嫌ですよ。でもあんなに幼い、あんなに元気だった子どもが…。私がやらなくてだ
れがやるのって。絶対に生きている限り、元気な限り伝えるべきだと思っています」
■マスコミに伝えたいことは?
「もしも大切な人が帰ったときに会えなくなっていて、しかも誰かの手によって奪われたらどうするかっていう気持ちを、生きた映像で、生きた活字で伝えていってほしい」
■犯人や世間の人に対して伝えたいことは?
「何の罪もない幼い子どもの命を3人奪って、妹の命を奪って、普通に生きている人(犯人)が、健康に暮らしている人の隣にいるんだということを、もしかしたらあなたの側にいるかもしれないと思うので、人ごとではないものですから。犯人には絶対に自首してほしい」

取材中、天海さんが何度も繰り返した言葉があります。
「真実はひとつだから。明日はどうなるかわかりませんからね」
なにかがきっかけとなり、事件解決の歯車がきっと動き出すはず。
天海さんの言葉には、21年の月日が流れ、時に諦めてしまいそうなときがありながらも、事件解決を願う強い気持ちが込められていました。