
努力と“絆”でハンディ克服…甲子園で大活躍した左手の指ない外野手 中学時代に明かしていた『握り替え』のきっかけ


左手の指がないハンディを乗り越え、甲子園で大活躍した県立岐阜商業の横山温大(よこやま・はると)選手。ふるさとに戻った横山選手に密着すると、そこには家族や恩師などとの強い“絆”がありました。
■久しぶりの“ふるさと”へ 支え続けた家族との“絆”
甲子園ベスト4に輝いた県岐商の選手たちが8月22日、地元に“凱旋”しました。多くの生徒らの出迎えを受け、バスを降りた横山選手が向かったのは、母親の尚美さんのもとでした。

横山選手: 「ここまで支えてくれてありがとうございます」 母・尚美さん: 「お疲れさま。プレッシャーもあったと思うけど、よく頑張りました」 横山選手は、家族や恩師、仲間たちに支えられ、ハンディを乗り越えてきました。 横山選手: 「こうやってハンディがあっても、他の人に負けないくらいできるんだぞ」 2007年、3人きょうだいの末っ子として誕生した横山選手は、生まれつき左手の指がありません。先天性で原因は分かりません。

父・直樹さん(2022年): 「そりゃショックというか、本人が一番苦しむのであろうと思っていたので」 母・尚美さん(2022年): 「幼稚園の年中か年長くらいの時に、『小学校に行ってもこのままなの?』と言った時もありました」

両親は、生まれた子供の名前にある思いを込めました。 母・尚美さん(2022年): 「私が名付けたんですけど、『温』という字は、温かい、優しい、柔らかいイメージがあるのと、上の子(昂大さん)も『大』が付くので、大を付けたかった」 5歳の時に、野球をしていたお兄ちゃんとお姉ちゃんに憧れ、バットを振り始めました。 小学3年生になると、スポーツ少年団に入団します。

横山選手(当時10歳): 「僕の将来の夢は野球選手です。もっと野球の練習を毎日やって、みんなから憧れられる選手になりたいです」 当時は義手をつけてピッチャーをしていましたが、ボールを取るのが難しく断念しました。今後の野球人生を見据えての決断でした。 中学生になると、愛知江南ボーイズに所属し、ピッチャーと外野手の“二刀流”に挑みました。

Q.なんでグローブが2つある? 横山選手(当時中学3年生): 「ピッチャーやる時は左手にはめてそのまま捕るんですけど、外野やる時は左手だとつかめないので、右手でつかんで握り替えている」

甲子園でも話題となったグローブの“握り替え”の原点です。 横山選手(当時中学3年生): 「他の子と違うけど、違うって自分では思っていないので。手が不自由だけど、それをハンディとしない。逆に武器にして」

そんな横山選手の中学時代の思いは…。 横山選手(当時中学3年生): 「甲子園に出たいです。自分も甲子園で活躍してみたい」 母・尚美さん(2022年): 「甲子園に行きたいという気持ちがあるみたいで。主力で出られるように頑張ってもらいたい」 お父さんと一緒にバッティング練習をして、お母さんにも大好物の手作りカレーライスを作ってもらうなど、両親に支えられてきました。
■『バッターで勝負をしたい』監督を驚かせた“決断”
中学卒業後は、強豪・県立岐阜商業高校の門を叩きました。ピッチャーに専念したものの、二軍にあたるBチームの手伝いをする日々が続きます。 横山選手は高校1年生の11月、「大きな決断」をしました。当時の監督だった鍛治舎巧さんに、こんなメッセージを送っていました。

前監督の鍛治舎巧さん: 「『夜分すみません。ピッチャーをやっていましたけども、とてもこのままじゃベンチに入れない。だから僕はバッターで勝負をしたい。バッターというのは、ピッチャー以上にハンディは大きいだろうけど、自信がある。バッターで勝負させてください』というメールが来たんですよ。相当な決意だなと思って、『いいよ!それならがんばれ!』とメールを返した」

ピッチャーから、外野手一本で勝負することを決意しました。すると…。 前監督の鍛治舎巧さん: 「『あの左バッター誰?』って聞いたら『横山です』って言うので、びっくりして、すごいスイングしているんですよ」 高校3年の夏、横山選手は藤井潤作新監督から、レギュラーである背番号9を託されました。

その原動力となったのは、母・尚美さんのある思いでした。 母・尚美さん: 「本人にもやっぱり、みんなと一緒の体に産んであげられなかったというのは、申し訳ないなと思っていたので」 横山選手: 「両親にそういう気持ちにさせたくないなと思って、自分でその分頑張って、それを武器として逆に個性として、そういう体に生まれてきたんだよなっていうことを思って、プラスに捉えてやるようになりました」 横山選手がこう話していることを聞いた母親は…。 母・尚美さん: 「本当ですか?そんなこと言ってた?」

ハンディを乗り越えるために人一倍練習を重ね、右手には大きなマメができています。 横山選手: 「右腕一本ですけど、左手の押し込みもできるように筋力をつけました」 守備では、中学2年生から使っているグローブで、素早い握り替えを習得しました。 横山選手は高校最後の夏、岐阜大会で大活躍、打率はチームトップの5割超えで、3年ぶり31回目の甲子園出場に大きく貢献しました。

横山選手: 「甲子園の舞台でもしっかりアピールして、ハンディを抱えた子たちにも、勇気や希望を持って、自分でもできるんだなと思ってもらえるように、プレーしていきたいです」
■甲子園で大活躍!両親への“恩返し”
ついに夢の甲子園の舞台に立った横山選手、家族はアルプススタンドから見守ります。 準々決勝では、春の王者・横浜と対戦しました。横山選手は初回2死二塁のピンチで、右翼線に抜けそうな打球を見事にダイビングキャッチし、チームを救います。 横山選手: 「あまり捕った感触がなくて、スタンドの歓声で気付いたってわけじゃないですけど、それぐらいだったので、めっちゃ気持ちよかったです」 さらにバッティングでも、1回戦から4試合連続となるヒットを放ち、県岐商は延長11回に劇的なサヨナラ勝利、16年ぶりにベスト4進出を果たしました。 父・直樹さん: 「うれしいです!みんなすごいです」 母・尚美さん: 「信じられないですね」 日大三との準決勝でも、1点を追う2回、横山選手の犠牲フライで同点に追いつきますが、惜しくも準決勝で敗れ、決勝にはあと一歩届きませんでした。 横山選手: 「まずは両親に感謝の気持ちを伝えたいです。ここまで少しは恩返しできたかなと思うので」
■伝えたい“感謝の思い” そして未来へ
準決勝から2日後、戦いを終えた横山選手に密着しました。 横山選手: 「中学校まで行っていた愛知江南ボーイズに挨拶に行きます」 やってきたのは愛知江南ボーイズのグラウンドです。

愛知江南ボーイズの住藤重光代表: 「おかげでたくさん取材受けたわ(笑)」 後輩たちに、力強いスイングを披露したり、サインボールをプレゼントしたりするなど、後輩たちと楽しい時間を過ごしました。

横山選手: 「この愛知江南ボーイズでの経験があったからこそ、甲子園でベスト4になれたと思うので、自分たちのベスト4を超えて優勝を狙えるように、もっともっと頑張ってください。応援しています」 後輩たちと触れ合う中で、横山選手が思い出したことがあります。 横山選手: 「ここで基礎からスイングもたくさんしたから、あの甲子園の舞台で打てたかなと思うので、とても感謝しています」

当時指導した臼井直樹コーチ: 「輝いていて、並大抵の努力ではなかったのかなと。見ている方としても感謝しています」 この時、甲子園では決勝戦が行われていました。横山選手もスマホで観戦です。

Q.甲子園に自分たちがいたというのはどんな感覚? 横山選手: 「全然なんか実感がないっていうか、『本当にこんなところに立ったのかな』っていう感じですね。悔いはないです。やりきった!っていう、自分だけじゃなくて、みんなそう思っている」 グラウンドを訪れた後は、母・尚美さんと、姉の香穂さんとランチタイムを楽しみます。 横山選手: 「カレーうどんにしようかな」 姉・香穂さん: 「お母さんのカレーとどっちがおいしい?」 横山選手: 「お母さんのカレー」 母・尚美さん: 「いじられてるね」

食後には、店の人から写真撮影をお願いされるなど、甲子園での活躍が、多くの人々の心を動かしました。 高校卒業後は大学に進学する予定の横山選手に、今後の目標を聞きました。

横山選手: 「バットが木製に変わるので、もっと難しくなってくると思うんですけど、たくさん打てるように、これから準備していきたいと思っています。限界まで、できるならプロまで行けるように、もっともっとこれから頑張っていきたいです」 2025年8月25日放送