
戦後80年 特攻からの生還 爆撃機「銀河」の元搭乗員99歳の証言

わずか19歳で特攻を命じられ、死を覚悟した男性。最新鋭といわれた爆撃機「銀河」に乗り込み、アメリカ艦隊へ体当たりするはずでしたが、さまざまな偶然が重なり、奇跡の生還を果たしました。終戦から80年を迎える今年、99歳になった男性が当時の記憶をたどります。
◆「怖くも何もなかった…」 特攻を命じられた99歳の記憶

80年前の5月7日、「銀河」の搭乗員として特攻に向かった男性がいます。
三重県熊野市に住む倉本宣男さん(99)。現在は妻(95)と2人暮らしです。
戦闘機で敵艦に体当たりをする特別攻撃、いわゆる“特攻”。
公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻で命を落とした人は、陸軍・海軍合わせて6371人。航空機による特攻だけでも3875人と言われています。
倉本宣男さん:
「(特攻作戦の)命令には逆らえないし、いつかは行かないといけないと思っていたから、行ったときは絶対に失敗せず、確実に戦果をあげないといけないという気持ちでいた」

倉本さんが所属していたのは攻撃第405飛行隊。当時の集合写真には、第706海軍航空隊とともに勇ましい表情で映る、総勢136人の若者たちの姿がありました。
倉本宣男さん:
「戦争ですからね…自分だけ残ることはないですわね。隊長も副長も一緒、みんな逝くんですから」

1942年5月。
当時16歳だった倉本さんは航空機の搭乗員になるため、海軍飛行予科練習生、いわゆる予科練に入隊。乙種18期生でした。
約2年間の訓練を受け、太平洋戦争末期に配属されたのは、鹿児島県にある鹿屋基地。
そこで出会ったのが爆撃機「銀河」でした。
◆戦況悪化で最新鋭の「銀河」も特攻作戦に…死を覚悟した青年
旧日本海軍が太平洋戦争後半に配備した大型急降下爆撃機「銀河」。一式陸上攻撃機と同程度の航続力を持ち、零戦並みの最高速度を出せる最新鋭の機体です。
倉本宣男さん:
「銀河はね、陸上攻撃機。急降下爆撃をしてね、戦況の変化で特攻に変わった」
倉本さんが作戦に加わる頃には、戦況の悪化に伴い「銀河」も特攻作戦に使われるようになっていました。
1945年5月1日。
倉本さんら銀河隊は「第四御楯特別攻撃隊」と命名され、1945年5月7日に「第三次丹作戦」を決行するよう命令が下されます。

この作戦は、鹿児島県の鹿屋基地を離陸した銀河隊が、アメリカ艦隊の拠点であるミクロネシア付近のウルシー環礁に向け、特攻を行うというもの。
当時19歳だった倉本さん。覚悟は決まっていました。
倉本宣男さん:
「陸軍だと鉄砲が飛んできて痛い目にあわないといけないが、特攻は一瞬で(死ねるので)痛くもかゆくもない。怖くも何もなかった」
死を覚悟していた倉本さんは、なぜ特攻作戦から生還することができたのでしょうか…。
◆死の飛行からの帰還 偶然が重なりつかんだ紙一重の命運

倉本さんは、壁谷機長と小河操縦員の3人で銀河に乗り、“運命の日”を迎えました。特攻作戦の当日は午前4時ごろ目覚めたといいます。
目的のウルシー環礁までは、鹿屋基地から約2500km。片道5時間ほどの航路です。倉本さんによると、通常であれば800kg爆弾1発、もしくは500kg爆弾2発を積み込むところ、800kg爆弾2発を積み込んだということです。

鹿屋基地には24機の銀河が整備されましたが、機体の故障などがあり、発進できたのは19機。発進時に自爆した銀河もあったといいます。
銀河隊がウルシー環礁を目指して飛行していると、仲間が次々とエンジントラブルに見舞われ、沖ノ鳥島に近づいたころには出発時の半分以下の8機となっていました。
まもなくウルシー環礁に到着というときに現れたのは、大きな積乱雲。倉本さんらは雲を避け、悪天候の中で飛行していると、3機を見失います。
雲を抜け、残ったのはわずか5機。編隊もバラバラになった上、敵の機体も見られたため、特攻を断念する判断が下されました。
しかし、小河操縦士は気合が入っていたのか命令に従わず「特攻する! 行くぞ!」と特攻を続けようとしたのです。すると壁谷機長が「ばか野郎! 帰る!」と怒鳴り、二人は口論に。結局、基地に戻ることになりましたが、まさに紙一重で特攻を免れたのです。
ところが、さらに思いもよらないことが起こります。
重たい爆弾を積んだままでは、着陸時に車輪などが耐えられず壊れ、機体が爆発してしまう可能性があったため、海に爆弾を投下することにしたのですが…。
倉本宣男さん:
「弾倉が開かなくてね。800kgの爆弾が2発、ごろごろしているんですよ。危なくて降りられない。信管も緩めて、いつ爆発してもいいようにしている。特攻だから弾倉が開かないようにしているのか、落ちなかった」
いつ爆発してもおかしくない爆弾を投下することができなかったのです。
「倉本!何とかしてくれ!」と叫んだ壁谷機長。
倉本さんがもぐって足で弾倉を蹴ったり爆弾を動かしたりしていると弾倉が開いて、なんとか爆弾を投下することができました。
こうして倉本さんは無事に帰還したのです。
◆奇跡の生還を果たした「銀河」の元搭乗員が伝えたいこと

戦況が悪化しパイロットが減る中、失敗した作戦。
作戦記録には、失敗の原因が記されていました。
・若年搭乗員多ク、梓特攻隊員ニ比シ技術極メテ未熟ニシテ本攻撃参加無理ナル搭乗員多シ
・発動機ノ不良及発動機機体ノ整備不良
・途上ノ天候不良
・要スルニ本搭乗員ヲ似テ銀河ニヨル長途ノ攻撃ハ至難ナリ
その後も作戦は継続されましたが、天候不良などで特攻を免れ、倉本さんは終戦を迎えました。

銀河に一緒に乗った壁谷機長と小河操縦士はすでに亡くなり、当時の戦友はもう誰もいないといいます。
当時を振り返り、「話し合いで解決できないものか…」と話す倉本さん。
戦後80年を迎えるにあたり今、伝えたいことは…。
倉本宣男さん:
「国を挙げての戦いになると個人では断り切れないですわね。大勢の人が団結して声を上げれば何とかなるかもしれない。大衆の発言が大事だと思うね」