
海に眠る80年前の記憶 日本からはるか南…帰らぬ父“今も船の中に” かつての姿を残し海底に沈む戦争の記憶

戦後80年、終戦の日を迎えました。日本のはるか南、命が沈む海からのメッセージです。

愛知県半田市に暮らす小栗利治さん、94歳。戦時中、市内の工場で軍用機の部品を作っていました。当時はまだ中学生、いわゆる学徒動員です。
小栗利治さん:
「早く逃げ出したいと思った気持ちもあります。全員ですから。一人残らずが軍需工場で動員されていますので、当たり前で仕方がない思いです」

工場に隙間なく並ぶ飛行機。溶接や組み立て作業などを中学生や高校生が行いました。
小栗利治さん:
「操縦席に入っているのは子どもが入って仕事する。配線おれはうまいぞと言っていた同級生がいた」

造られていた飛行機は偵察機「彩雲」。時速600キロを超えるスピードは、当時の日本軍機で最速とされています。
小栗利治さん:
「『バリバリ』といういい音じゃない、そういう音で飛んでいった。あんな遠くまでよく飛んでいったな。我々が造った飛行機がよく飛んでいったなと」

旧日本海軍の電報には、「彩雲6機をPTに派遣」との記録が。
このPTを指すのが、日本から飛行機を乗り継いで6時間。南太平洋に浮かぶ旧トラック諸島(現チューク州)です。
かつて、日本海軍の軍事拠点が置かれていました。

当時を知る94歳の住民は日本の歌を覚えていました。
94歳の女性:
「ももたろうさん、ももたろうさん。お腰につけたきびだんご、ひとつ私にくださいな。やりましょう、やりましょう。これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう」「戦争で亡くなった人もいました。私たちは防空壕(ごう)に入っていたので助かったんです」

今も鮮明に残る、当時の記憶。
この島一帯は終戦までの間日本が統治。学校が整備され、相撲大会まで開かれていました。
島の中には、当時作られたものが今も残されています。防空壕は、子どもたちの遊び場に。

日常にある"戦争の痕跡"。この場所で81年前・・・。
1944年2月、アメリカ軍が行った攻撃、トラック大空襲です。基地は壊滅的な被害を受け、飛行機や船が海に沈みました。
そして、愛知で作られた偵察機「彩雲」は戦後、島の近くで見つかりました。

彩雲が沈む海へ。
水深15メートル。サンゴが広がる先。見えてきたのは・・・彩雲です。ほぼ原型をとどめた状態で残っています。
プロペラとエンジンが取り外されているため、終戦時に日本が投棄したと考えられています。

学徒動員された少年たちが組み立て作業をした操縦席。
海の底に沈んだことで残った戦争の記憶です。
彩雲の部品を作っていた小栗利治さん。80年ぶりにその姿を目にします。
小栗さん:「ほとんど形が残っていますね」
記者:「魚のすみかになっています」
小栗さん:「かわいそうだな」

小栗さんが思いをはせたのは、当時の若い搭乗員たちです。
小栗利治さん:
「お国のために、お国のために戦った兵隊さんよありがとう、という歌ですよ。それが子どもですよ。みんな命を捨てる覚悟で、パイロットは生きて帰れると思っていない。日本へ二度と帰れないつもりで飛行機に乗っていると思う」
命をかけて戦った兵隊の思いも海の底に沈んでいるように見えたのです。

当時、アメリカ軍の攻撃を受けて沈んだ41隻の艦船。そのうちの1隻が愛国丸です。貨客船でしたが、弾薬や食料などを運ぶために使われていました。

桑山市郎治さん(83):
「これがおやじの写真です。うちの父親の記憶は全くない」
桑山重貞さん、当時24歳。愛国丸に乗る機関兵でした。

その息子、愛知県知多市に暮らす市郎治さん。父親の船が沈んだときはまだ2歳。
桑山市郎治さん:
「うちの父親の記憶は全くない。やっぱり2歳というのは全然ないね」
Q当時、召集令状が来たんですか
「赤紙。当時はね。(両親は)結婚してまだ2年かそこら」
重貞さんは家族を残したまま戦地へ。

愛国丸とみられる写真。爆発した船の機関室に桑山さんの父親はいたとみられています。
Qお父さんはまだ機関室の中に?
桑山さん:「おるんですよ。そのなかにまだ骨がものすごくある。(亡くなるときは)子どものことを思っただろうね。一瞬だからね。死ぬときはそう思ったんじゃないかな」

日本からはるか3400Km、旧トラック諸島(現チューク州)。その海に潜っていくと…見えてきたのは2本のマスト。アメリカ軍の攻撃で沈んだ愛国丸です。
全長は160メートルありましたが、爆発で船の前半分は吹き飛びました。

船尾に設置されていた大砲。サンゴが張り付き周囲を魚が泳ぎます。
これまで愛国丸から引き上げられた遺骨は355柱。今も遺骨が見つかりました。

チューク州の警察署で日本国旗がかけられ保管されていたのは、去年、愛国丸から回収した遺骨。
国から派遣された法医学の専門家が、日本に持ち帰るための鑑定を行います。
歯や骨の特徴を調べ、日本人かどうかを判断します。
遺骨鑑定専門員:
「これを見るときに山と谷があるのが奥歯なんです。使っているとすり減るので、ほとんどすり減っていませんから。年齢だけ見ると若い人かな」
DNA鑑定が行われ身元の特定につなげます。

家族のもとへ帰す取り組みが続けられるなか、時の流れが捜索を困難にさせていました。
堆積物が舞い一瞬のうちに奪われる視界。巻き尺を伸ばして進むのは、戻る際の道しるべにするためです。
桑山さんの父親がいた機関室は深い場所にあり、船内が老朽化して崩れる恐れも。そのため遺骨回収は今もできていません。

日本戦没者遺骨収集推進協会 井上達昭さん:
「ご遺族が高齢化するなか、一日も早くと時間との勝負と思ってできるうちにできることをする」

現地に遺族が集まり行われてきた慰霊祭。
父親を悼むため、桑山さんはこれまで何度も足を運んできました。
桑山市郎治さん:
「肉親の父親がいたところに静かなところで安らかにって思う。行くことによって心がトラック島で親子一体になるのは確かにある」
穏やかな南の海。長い歳月が経ち遺族のなかには心境の変化も起きています。
桑山さん:
「どこかで区切りをしないと。こだわっていては自分自身が苦しむ。区切ることが救いだと思った」
“この体にはいつも父の血が流れている”桑山さんは今はそう考えています。

戦後80年。激戦地だったこの海は今、世界屈指のダイビングスポットとして知られ多くのダイバーが訪れるようになりました。
ドイツ人ダイバー:「小さなエリアに沈没船がたくさんあるのが魅力」
ブラジル人ダイバー:「潜ったときに、戦争の歴史を感じられた」
いつしか“海底博物館”と呼ばれるようになり、この地域で欠かすことのできない“観光資源”に。
現地で暮らす人々の海に対する意識も変わってきています。
ダイビングショップオーナー:
「戦争を知っていた人はみんな亡くなってしまった。以前の従業員は、沈没船に敬意を払っていた。今はあまりしなくなった」
かつての姿を残し海底に沈む戦争の記憶。残された日本兵の遺骨と共に今も静かに眠っています。