
太平洋戦争中の“不発弾”発見相次ぐ 年間1000発以上処理 名古屋の不発弾は「B29が落とした焼夷弾」

次々に見つかる太平洋戦争中の不発弾。小学校の校庭に河川敷、そして空港の滑走路でも。その数実に年間1000発以上。
【写真を見る】太平洋戦争中の“不発弾”発見相次ぐ 年間1000発以上処理 名古屋の不発弾は「B29が落とした焼夷弾」
戦後80年が経った今も足元に潜む戦争の爪痕。その現場に迫ります。
(荒川栞記者)
「不発弾が見つかった現場です。撤去開始の2時間前ですが、自衛隊がすでに準備を進めています」
2月14日、名古屋のオフィス街で見つかった不発弾。現場は、中区丸の内にあるビルの解体工事現場でした。
発見されたのは、アメリカ軍が落としたとみられる全長1メートル20センチ、重さ250キロの焼夷弾です。
(近所の人)
「私のおばあさんやおばさんも大空襲の時に亡くなった。地下を掘っていないような所はたくさん出てくるのではないか」
「隣も2つ出た。これで3つ目なんで、うちの周りから出るので、びっくり」
周辺住民1209世帯 1911人に避難呼びかけ
実は、今回の発見現場では、去年10月と3月1日にも不発弾が見つかっていて、さらに、その目と鼻の先の場所でも1発が見つかっています。
名古屋市ではこれまで、年に1件のペースで不発弾が見つかっていましたが、この半年だけで5件、うち4件が中区丸の内の工事現場です。
(アナウンス)
「不発弾の処理作業を行います。警戒区域内は立ち入り禁止となりますので、ご協力お願いします」
不発弾撤去当日の20日、現場から半径200メートルが立ち入り禁止に。周辺住民1209世帯1911人に避難が呼びかけられました。
「今から仕事だが(ペットも)一緒に連れて行く。多分大丈夫だと思うが、少し不安なので」
「戦争って終わっているようで終わっていない」
周辺の飲食店やコンビニも一時、閉店を余儀なくされました。
「(閉店は)売り上げに響く。響くけど安全第一。体があってのことなので…」
中には、閉店を知らずに店を訪れる人の姿も。近くの小学校に設けられた避難所では…
(避難した人)
「教科書でしか学習したことがなかったので、実際に近くにあったのは意外」
「(避難は)あと2回もありますもんね。掘れば掘るほど出てくるのでは」
丸の内で見つかった4発の不発弾「B29が落とした焼夷弾」
オフィス街で相次いでいる不発弾の発見。名古屋空襲に詳しい東海高校・副校長の西形久司さんは丸の内で見つかった4発の不発弾について、シリアル番号などから80年前の3月19日にB29が落とした焼夷弾と特定しました。
(東海高校 西形久司副校長)
「優先敵に爆撃すべきところをアメリカは『ゾーン』という言葉で表現していて、このあたりはまさにゾーン1の中心部。木造家屋が密集して=焼き払いやすい、名古屋という都市を壊滅させる順位として最も優先度が高かった」
近所に住む太田元孝さん83歳は、3歳の時に空襲を経験しました。
(太田元孝さん)
「雨あられのように降った。焼夷弾が。知多で見ていたが、知多郡から真っ正面が名古屋だから(焼夷弾が)いっぱいだった」
Q.3歳のときの記憶がある?
「あります。飛行機と焼夷弾は鮮明に残っている。防空壕から見ていた」
残った2発の不発弾は4月に撤去予定
市街地を狙った無差別爆撃。アメリカ軍の作戦任務報告書には、この日1日だけで、丸の内を中心に1946発、重さにして486トンもの焼夷弾を投下したことが記されています。
(東海高校 西形久司副校長)
「1945年3月19日の不発弾が時を超え、2025年3月20日(80年後)に撤去。全く偶然ですけど、ある意味不思議な因縁を感じる」
そして20日、中区役所に設置された対策本部。
「11時53分、弾頭信管の離脱が完了しました」
作業開始からおよそ2時間後の正午前、起爆装置にあたる「信管」が無事、取り除かれました。不発弾はこの後、自衛隊によって京都の駐屯地まで運ばれ、処理されるということです。
(陸上自衛隊 第103不発弾処理隊 𠮷川直樹隊長)
「今回の爆弾は比較的順調に処理できた。住民の負担もかかるし、工具が1セットしかないのもあり、体力的なところと時間がみえないところもあるので、安全確実にという考えで一発ずつやっている」
戦後80年の今も消えない戦争の爪痕。現場周辺には、2月24日と3月1日に見つかった2発の不発弾が残されたままで、いずれも4月に撤去される予定です。